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一日一書 511 本気で鶏を叱っている・尾崎放哉

2015-02-17 19:28:26 | 一日一書

 

尾崎放哉

 

本気で鶏を叱っている

 

半切四分の一

 

 

「鶏毛筆」で。

「鶏毛筆」で「鶏」という字を書くのも、ちょっと変な感じ。

この句は、畏友、児童文学作家の松原秀行君に、フェイスブックで教えてもらいました。

彼によるとこの句には「そこはかとない哀愁が漂っている」とのこと。

そう思って読むとまた味わい深い。

「本気で」は、もちろん「ほんきで」と読むわけでしょうが

今風に「マジで」と読みたくなるような気もします。



ぼくが持っている岩波文庫の「尾崎放哉句集」には掲載されていません。

選者の池内紀氏は気に入らなかったのかも。

 

 

もう一枚。

 

 

 

印は、「CACA」会員の丸山浩平先生の作です。

 


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一日一書 510 灌頂記・臨書 12

2015-02-16 17:15:00 | 一日一書

 

 

半紙

 

 

再び、「灌頂記」の臨書。

果てしなく。

 


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100のエッセイ・第10期・21 勉強の快楽

2015-02-15 12:09:20 | 100のエッセイ・第10期

21 勉強の快楽

2015.2.15


 

 「第3回CACA臨書展」という展覧会に行ってきた。原宿のアートスペースリピーナという会場で、その日は臨書作品の展示だけではなくて、主宰者の岡本光平先生の「古典解説と臨書実演(空海を書く)」という催し物があったのである。展覧会は無料だが、こちらの解説・実演は3000円の入場料が必要で、2:30~5:00ということだった。岡本光平先生のことは、師匠の越智麗川先生から伺っていて、去年の「CACA」の展覧会場でもちらりの姿を見かけたが、近づきがたい雰囲気のある先生だった。(詳細はこちら

 書道家という範疇にはとどまらず、現代アート作家としても国際的に活躍されている先生で、そんなすごい先生のお話を聞くことができ、実演まで見ることができる。しかも、その実演が、ぼくがこのところずっと取り組んでいる空海の「灌頂記」だとあっては、何が何でもいかねばならぬ。

 ぼくごときがそう思うくらいだから、広い東京のこととて、いったいどれくらいの人が押しかけるかしれたものではない。会場は狭いから、20人も入ったら満杯だろう、後ろの方の席だったら実演も見えないだろう、といろいろ心配し、開始の30分前に会場についた。受付に行くと、予想に反して、一人も並んでいない。空いているのかなと思いつつ、岡本先生やそのお弟子さんたちの臨書作品(すべて全紙)を見ているうちに2:30になった。なんと、会場には、10人もいない。そのうち数人は会場にいたお弟子さんたちのようである。ぼくは、いちばん前のど真ん中の席に陣取ることができた。

 実演の前に、空海のこと、密教のこと、そして『灌頂記』のことなどが、綿密にしかも興味深く語られた。世界史と日本史を自在に行き来し、そして現代との接点にもふれるお話は、ぼくが今まで知らなかったことや、漠然と知ってはいたけど、そういうことだったのかということに溢れ、1時間にも及ぼうとするお話に、心を奪われた。

 ああ「学識」というものは、こういうものなんだなあ、としみじみと思った。後で先生の経歴をみると、仏教や漢字についてはほとんど独学で学んだとある。人は学ぼうとすれば、どこまでも学べるんだなあと驚嘆した。そして、その「学識」は単なる「博識」とは違って、先生の書や現代アートの作品を裏から支えている。あるいは、作品を産み出す源泉となっている。

 勉強したい、と切実に思った。いったい今までぼくは何を勉強してきたのだろうか。空海の『灌頂記』の臨書に何年も取り組んできながら、空海の思想を少しでも勉強しただろうか。『性霊集』を1ページでも読んだだろうか。そもそもその本が家にあるだろうか。「密教」の何を知っていただろうか。「灌頂」の儀式が、キリスト教の「洗礼」の影響を受けている可能性があるなんてことを考えたことがあるだろうか。考えれば考えるほど、ぼくの勉強不足が明らかになるばかりだった。

 実演のすばらしさは、いうまでもなかった。全紙一枚に次々と書かれていく『灌頂記』の文字。文字通り「食い入る」ように見た。目の奥に焼き付けた。『灌頂記』の後には、『益田池碑銘』のお話と臨書実演があった。「雑体」という不可思議な文字の臨書もまた新鮮だった。

 全てが終わったときは5時をとっくに過ぎていた。背中は痛くなったが、ぼくの生きる世界がぐ~んと音をたてて広がっていくような貴重な時間だった。
最近は、そういう経験をよくするようになった。つい最近フェイスブックの「友達」になった、神奈川近代美術館の水沢勉さんの投稿も、ぼくの世界を広げてくれている。この前「一日一書」で書いた西東三鬼の「水枕」の句も、水沢さんが取り上げているのに触発されたものだった。同じく「一日一書」で、尾崎放哉の句を書いたら、友人で作家の松原秀行君が「本気で鶏を叱っている」という句を教えてくれた。ありがたいことである。

 勉強すること、したいことがありすぎて、老い先短い者としては、下手をすれば絶望感に陥りかねないが、よく考えてみれば、ぼくらがいくら勉強したって、知ることのできることはたかが知れている。文化にしても、歴史にしても、膨大な蓄積の断片を学べるにすぎない。だとすれば、いつこの世におさらばしようと、その日まで腰をすえて勉強し続ければよいのだ。「永遠に生きる覚悟でまなべ」とガンジーも言っている。

 そしてまことに幸いなことに、高齢者にとって勉強は、ちっとも苦痛ではない。むしろ快楽そのものだ。だって、もうあの憎むべき「試験」がないのだから。


 



★蔵出しエッセイ★「読解力」の彼方に


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一日一書 509 別離・佐藤春夫

2015-02-14 11:44:35 | 一日一書

 

佐藤春夫「別離」より

 

34×35cm

 

 

全文は以下の通りです。

 

 

  別離

 

人と別るる一瞬の

思ひつめたる風景は

松の梢のてつぺんに

海一寸に青みたり。

 

消なば消ぬべき一抹の

海の雲より洩るやらむ

焦点とほきわが耳は

人の嗚咽を空に聞く。

 

 

 

この詩においても、やはり第1連が断然すぐれています。

むしろないほうがいい。

そんな気さえします。

 

この詩を読んだのは高校時代。

「殉情詩集」の詩は、ほとんど覚えていることでした。

若い頃に読んだものの記憶は

たとえば、つい最近見た刑事ドラマの記憶よりも100倍も鮮明です。

 

 

 


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一日一書 508 春の山のうしろから・尾崎放哉

2015-02-13 15:55:18 | 一日一書

 

尾崎放哉

 

春の山のうしろから煙が出だした

 

半紙

 

 

いったい何の煙なの? って考えると

のどかなのか、こわいのか

分からなくなる。

 

ここでは「のどか」なつもりで

書いています。

 

 

 


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