戦時中、連行されて来た徴用工を含む多くの朝鮮人が、様々な差別を受けながら、劣悪な労働環境の鉱山や土木工事現場などで長時間強制的に働かされたことはよく知られていると思います。
だから、朝鮮人労働者の事故死が少なくなかったことは、下記の洪象寛(ホンサングァン)氏の文章からわかります。また、金蓬洙氏の文章からは、事故死や病死だけではなく、多くの自殺者があったこともわかります。特に下記は、当時の朝鮮人の生活状況がいかなるものであったかを考えさせる文章ではないかと思います。
”時間的制約から残念にも書き取っては来られなかったが、多くの朝鮮人同胞の赤児の死に私は涙せずにはいられなかったのだ。私が書き取って来た成人同胞41名に対し、その書類中に確認した同胞幼児の死亡は実に80の多数であった。この小さな鉱山町神岡にて、1940年から45年の間に朝鮮人の子供達が少なくとも80人死んだのだ。”
こうした過酷な状況を考えると、朝鮮人の労働現場からの逃亡や強制連行されてきた人たちによる暴動も当然だろうと思います。
でも、現在の日韓外交をみると、日本の多くの政治家が、こうした過去の事実を踏まえているとは思えません。それどころか、今なお、当時の差別を引き継いでいるようにさえ思います。
安倍総理は、元徴用工への賠償を日本企業に命じた韓国最高裁の判決に対し、
”今般の判決は、国際法に照らせばあり得ない判断であります。日本政府としては国際裁判も含め、あらゆる選択肢を視野に入れて、毅然として対応していく考えでございます。”
などと発言したことがありましたが、法に基づく正当な国際裁判がなされるならば、日本は恥ずかしい思いをすることになると思います。
なぜなら、人間が人間らしく生きていくために必要な基本的な権利、すなわち思想の自由・信教の自由、表現の自由などの自由権、また、そうした自由権を現実に保障するための政治的基本権(選挙権,請願権など)や生存権などの社会経済的基本権などが「基本的人権」として認められている社会では、国家といえども個人の権利をむやみに制限したり、ましてや同意なく消滅させたりはできないはずだからです。
戦後の国際社会では、元徴用工個人の請求権を国家が勝手に消滅させることはできないわけで、当時の日韓請求権協定で放棄したのは、国家の外交保護権なのです。それを無視して、「解決済み」ということこそ、国際法違反なのだと思います。
さらに、韓国最高裁の判決に対し、韓国政府に圧力を加えるという政治的姿勢は、三権分立を否定するものであり、安倍一強の日本では通用しても、国際社会では受け入れられないのではないかと思います。
私は、日本政府がきちんと過去の事実を踏まえて元徴用工に対することなく、日韓の政治家同士で相互に利益がらみの交渉をして、経済協力だけで、無理矢理「解決済み」にするというようなことはあってはならない野蛮なことだと思います。
下記の文章でも明らかですが、当時の労働者に対する日当の差別、食べ物の差別、労働内容の差別は否定しようがない事実だと思います。だから、日韓友好のために、野蛮で差別的であった戦前・戦中の日本のあやまちを認め、誠意をもって過去の事実を明らかにし、元徴用工やその家族を含めた交渉によって真の解決をめざすべきだと思います。
戦前・戦中の日本の人命軽視や人権無視や差別は、きちんと乗り越えなければならない大きな問題であるにもかかわらず、安倍自民党政権は朝鮮人徴用工の問題の本質には眼を向けず、「戦後レジームからの脱却」をかかげて、逆に戦前回帰の政策を進め、再び人命を軽視し、人権を無視する新しい「皇国日本」をつくりあげようとしているように見えます。
麻生副総理兼財務大臣の「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。…そんな国は他にない。…」というような発言も、「戦後レジームからの脱却」の方向性を示す発言ではないかと思います。
私にはそれが、「尊王攘夷」を掲げ、嘘と脅しとテロによって幕府を倒した薩長および討幕派公家による明治維新とダブって見えるのです。
明治政府は、皇室神話を背景に、国民による批判を許さない体制を整えて膨張政策をとり、琉球を強制併合した後、台湾出兵、江華島事件、朝鮮王宮占領、日清戦争、日露戦争、韓国併合、山東出兵…、など領土拡張のために武力衝突をくり返しました。そして、そうした姿勢が、日本の敗戦に至るまで変わることがなかったことを忘れてはならないと思います。
徴用工の問題は、単なる未払い賃金の問題ではなく、戦時中の日本の人命軽視や人権無視や差別の問題でもあり、日韓請求権協定による経済協力によって「解決済み」にはできない問題を含んでいると思います。日本の針路に関わる問題なのだと思います。
下記は、いずれも「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から抜粋しました。
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(長野)
戦前・戦時下の下伊那における朝鮮人労働者の実態の掘り起し
原 英章
洪象寛(ホンサングァン)氏からの聞き取り調査(1986年8月)
洪象寛氏は、1921年生まれ、現在65歳。高森町で焼肉屋を経営している。出身は済州島、朝鮮では一番暖かい所だ。
象寛の子供の頃は、今のブタよりもひどい生活だったという。学校なんか全然行けない。私たちの年代が一番学校へ行っていない人が多いのではないか。兄弟のうち長男だけを学校へやった人もいる。植民地だったからやりにくかったこともあるが、親の考え方もよくなかったのではないか。60軒あるのうちで、学校へ行ったのは9人だけだった。当時の学校は、校長は全部日本人で、警察も部長級以上は全員日本人であった。私は学校へ行けなかったが、冬になると村の人が四ヶ月くらい夜学をやってくれたので、なんとか字だけは読めるようになった(当時の学校では日本語を教えていた)。
当時、50~60軒あったの半分くらいが日本へ渡って来た。まず一人が先に働きに来て、家族を呼んだりするのが多かった。とにかく、収入より支出が多くて朝鮮ではやっていけなくなってしまっていた。募集で日本へ来る人が多かったが、連れて来られた人もいた(強制連行)。南部の人たちは日本へ多く来たが、北部の人は満州へ行った人が多かった。満州へ行った朝鮮人は100万人を越えるといわれている。北部から来た人は現在の在日朝鮮人・韓国人70万人のうちの一割足らずだ。樺太にも朝鮮人が7万人もいる。
象寛は兄が東京にいたので、15、6歳の頃兄を頼って日本へ来た。東京から名古屋へ行き、3年ほどいた後、昭和19年(1944)に木沢(現在の南信濃村)へ来た。隧道(ズイドウ:トンネル)の工事をやっており朝鮮人が100人くらいいた。日本人は現場の監督とかコンプレッサーの見回り役程度で、ほとんどいなかった。その頃はどんな工事でも朝鮮人がいなければできない状態であった。昭和19年の2月か3月頃、木沢の掘割の工事場でうしろの山がくずれてきて、休んでいた4、5人の朝鮮人が生き埋めになって死んだ。
飯島の発電所から木沢の堰堤(エンテイ)までの隧道は朝鮮人がみな工事した。和田の前の隧道を私らがやった。今考えてみると危険な仕事であった。が、あの頃は一人や二人死んでも当たり前というくらいの感覚だった。
穴を掘ったり、ダイナマイトをかける仕事。私ら(自由労働者)は一日の日当が5円だったが、連れて来られた人は賃金が安く、日当は3円ぐらいだった。5円の日当でも、お金が残るということはなかった。朝7時に仕事に就くと夜の7時までの12時間労働で昼夜二交代制だった。一週間して交代する時には、朝の7時から翌朝7時まで働いて2日休むというやり方だった。
木沢でも逃げ出す人がいた。しかし、地理がわからないので逃げ切る人は少なくてつかまることが多かった。つかまえてきて、飯場頭(朝鮮人)に制裁されるのを一年足らずの間に何回も見た。逃げ出すのは仕事がきついというより、朝鮮で募集した時と話がちがうので逃げる人が多かったのだと思う。日本人の中にはいい人がいて、握り飯を作って逃げ道を教えて応援してくれた人もいたそうだ。
和田、平岡の工事場では、朝鮮人が同胞をいじめる奴が多かった。自分が日本人によく見られたいために。そんなこともあって終戦後に朝鮮に帰る船の中で、もとの飯場頭の兄弟が海中へ投こまれたという話を聞いたこともある。
昭和20年(1945)5月に平岡に来た。8月までの3ヶ月間居た。その頃は平岡ダムの工事が一時中止になって、遠山の発電所(飯島発電所)を早く完成させて電気を起こすという時期であった。中国人もいたが朝鮮人の方が多く。1000人くらいいたように思う。
食べ物が、朝鮮人、中国人、捕虜と三段階に分かれていた。朝鮮人は配給でくれた。中国人はパン食。捕虜はいちばんみじめだった。米ぬかやフスマのお粥だけで生きていける訳がない。200人近くいたアメリカ人捕虜のうち、生き残った人は20~30人いたかいないかぐらいだった。捕虜はセメントかつぎやレールかつぎなど一番えらい仕事をさせられていた。可哀相に思って、余ったご飯をそっと捕虜にやったのを日本人の監督に見つかり、ひどくおこられたこともあった。
終戦後2~3日以内にアメリカ軍が、飛行機で食料や物資を運んできた。
私らより北海道のタコ部屋へ連れていかれた人たちは可哀相なものだったようだ。大島(松川町)にいた、2~3年前に亡くなった洪覚文(ホンカクムン)という人はタコ部屋から逃げ出してきた人だった。
飯田線の工事の話を聞くと大変だったらしい。80歳のおじさんの話では、飯田線の木材会社の所に飯場があって、朝鮮人を70~80人収容し石を積んで逃げ出せないように庭をこしらえてあったそうだ。
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(岐阜)
神岡にて
金蓬洙(キム・ボンス)
・・・
夜、私は朝鮮総聯飛騨支部の副委員長氏の案内で神岡町内に住む同胞の家を訪れた。
金茂竜氏は相当高齢で別にこれといった病名はないが、ずっと寝たきりの日々である人だった。
老人は解放前神岡鉱山で働いていた人だった。
老人は私の来意を聞くと、部屋の真ん中に敷かれた布団の中に寝たまま苦しげに口を開いた。
「ある夜、わしらが寝ている所へ、表の戸をたたく音で起こされ、はき物もはかず戸の所へ行って表の様子を伺うと、尚もしつこく戸をたたくので誰だと声を掛けると、いきなり朝鮮語で『サルリョヂュショ』とはね返って来た。わしはすぐ募集人が逃亡を計ったな、外の若い衆はまた、戸をたたきながら、『助けて下さい。戸をあけて入れてください』と、ずっと朝鮮語でたのみこんだんだよ。それでもわしは黙っていると、『チョソンサラムの家だと知ってきました。助けてください』と、言うから、まったく困ってしまったさ。その若い衆を助けてやってばれたら、わしもただではすまん。もし、南方にでも送られたらな、家族のことなんかも考えると、口惜しいが助けてやれなかった。それでわしも朝鮮語でたのんだよ。助けてやりたいのは山山だが、それがばれたらわしも困る。お願いだから早く行ってくれ、と。若い衆はだんだん切羽つまった泣き声で、強く戸を打ちながら、『サルリョヂュショ』とやるし、わしはわしで考えると情けなくて、ついわしも泣きながら『たのむから早く遠くへ逃げてくれ。夜中にそんなにさわぐと隣近所が起き出すと大変になるから、早く逃げてくれ』と、しまいにはこちらがお願いしたさ。結局、その若い衆はあきらめて立ち去ってくれたが。ああ情けない話だ。恥ずかしい話だ。現在でもその晩のことを想うと、胸が詰まって死にそうだ。恥ずかしいことをしたと、顔があかくなる。けどあの時はああせんかったら、わしもどうなったやら」
老人は一気に話すと、天上を見すえて黙りこくった。私も、副委員長氏も言葉をさしはさまず重苦しい一時の狭間に沈み込んだ。
私達の思いを断ち切るかのように、老人はまた話を続けてくれた。
「坑内に入って仕事をする者達は弁当を持って坑に入るんだが、若い連中は腹がへってしようがなくて、昼飯時までしんぼうができずに、坑に入るが早いか、トロッコのかげなんかにしゃがみ込んで弁当を喰っちまって、昼飯は抜きで仕事をするんだから、夕方になると腹がへって力がでなくなってしまうわさ─。それを見てウェノムの監督がなぐる、けるしやがって!アイゴーおぞましい奴らだった」
ここで老人は起き上がりたいと言ったので、私達も手を貸して彼をふとんの上に座らせた。チャプ(嫁)に手掛けられたチャンチャンコに包まれるようにして、老人の語気は次第に熱っぽくなるのだった。
「そんなだったから、暴動が起きてしまったんだよ。その時わしは、仕事を終って社宅の山へ登ってみると募集人(彼は強制連行された人達をそう呼んでいた。呼ばされたというべきだろう)達が暴動を起こして、それぞれに鍬やら、のこぎりやらを振りかざして、事務所はもう壊してしまってありもせんかったし、舎監達はどいつもこいつも逃げてしまって、ものすごかったな。事務所をたたっこわす時は、まず電話器からからぶっこわしたんだそうだ。あれこれしておる内に、いくらもせんうちにスンサノム(巡査奴)が来るし、憲兵隊まで来てから、びくともできんように押さえつけてしまいよった。とにかく社宅三棟を空けて巡査がいっぱい入ったんだよ。そんな時は岐阜県中の巡査がみんなここへ集まったみたいだった。この時逃げた人も多勢だったし、殺された人も多かった。逃げる途中に捕まった人はみんな南方へ連れていかれて、みんなそこで死んでしまったんだろうな……。わしが直接見たんじゃないが、しばらくしたらそんなうわさで持ちきりだったな。
その暴動の後からは、それまで一個ずつだった握り飯が二個ずつもらえるようになったよ。けど、これをいくらももらって喰わんうちに、以前よりもっと飯が悪くなってしまったから、人間がどうして暮らすかね。それだから、真実腹がへって動くこともできんから、事務所の前にへたり込んでしまって『飯くれ! 飯さえくわせたら働くじゃないか!』と言うわけよ。それを監督共はトーントーンなぐるし、足でけっとばしやがって、アイゴー!身にふるえがくる話だよ。
同胞老人の話を聞いて、私は重苦しい気持ちでおいとまをした。
翌日の朝一番に若田氏から紹介を受けた、共産党の神岡町議会員の吉田秀次郎氏の家を訪れた。顔の浅黒い吉田氏は非常に気さくな感じの人で、私が玄関先で来意を告げると、まだ役場へ行くには早過ぎるからと、私を応接間に招じ入れ、小一時間にわたって、神岡における現政治情勢を話してくれた。中でも、多数の鉱山労働者達が選挙において共産党や社会党にではなく、保守党に投票する現実を慨嘆されたのが印象に残った。
そこそこの時間になって吉田氏は神岡町役場まで私を伴ってくれた。そして、係りの吏員に私が見たいという書類を見せてやってくれと声をかけてくれたのである。
私はまず役場の吏員に、朝鮮人強制連行に関する記録はないかと、実にばかげた愚問をしてみた。もちろん即座に、そういうものはありません。かつてはあったでしょうが、とっくに処分されてしまったでしょうからね。との返答が返ってきた。仕方がないので、では1940年頃から、45年までの埋火葬許可受付簿を見せてくれるようにたのんだ。まだ若い吏員は、あるかないかわかりませんが、捜して来ますからと、広い役場の執務室の一角に椅子を一つあてがってくれて、奥の方へ姿を消した。
たくさん机が並んでいて、それぞれに男女役人達が位置について事務をとっている。そんな中に折りたたみ椅子を置いて座っている様は、はた目にばかみたいな光景だろうが、それでも私は気恥しさなどは覚えなかった。そもそも、そんな事には慣れているから。外国人登録証の書替えのつど、ここよりよほど広い市役所の市民課の一角にぽつねんと座らされ、その時には犯罪者のように指紋まで取られるんだから。いいかげんばかばかしさにも慣れてくるものだ、などと思っている内に、さき程の吏員が見るからに古ぼけた書類をかかげるようにして来た。
彼はその辺の空いている机を探すと、ここで見て下さいと大部の書類をおろしてくれた。
黒っぽい程に黄ばんだ紙表紙に毛筆で「船津町埋火葬認許願綴」とある書類をめくってゆくと、多くの日本人に混じって、すぐにそれと分かる名前が、多分ガラスペンで書かれたであろう、硬い文字の形で私の眼を射抜いた。
金 伊 女 大正2年4月18日生 職業日雇 本籍 慶尚南道成陽郡席卜面熊谷里 現住所 船津町東町 死因変死(入水) 死亡場所 船津町内高原川流域 死亡日時 昭和15年5月16日午後10時
なんということだ! 朝鮮の婦は自殺などしないと聞かされ、また、私自身もかたくそう思って来たのに。この大部の書類をめぐって最初にこんなことを見るなんて、ばかな、私はいささか面喰い、そして心のうずきを押さえ切れなかった。
5月16日の夜の高原川。月が川面を照らしていただろうか。彼女に残された子供はいなかっただろうか。何が彼女を死に追いやったんだろう。
しかし私は限られた時間内で独り感傷にふけってばかりも居られないので、思い巡る心を押さえ込む様にせっせと書類をめくり、朝鮮人の名前を見つけては、メモ用紙に書き取る作業に励んだ。
私はこの作業を涙なくやり通せなかった。右手にペンを持ち、左手にタオルを持って時にはすぐまわりに居る役場の職員達を意識しながら、額の汗をぬぐうかのように目頭を何度もぬぐう羽目になってしまったのだった。
時間的制約から残念にも書き取っては来られなかったが、多くの朝鮮人同胞の赤児の死に私は涙せずにはいられなかったのだ。私が書き取って来た成人同胞41名に対し、その書類中に確認した同胞幼児の死亡は実に80の多数であった。この小さな鉱山町神岡にて、1940年から45年の間に朝鮮人の子供達が少なくとも80人死んだのだ。私は1943年生まれだから、それらの子供達はつまり私と同世代の者達である。子供達はほとんどが零歳、若しくは一歳の年月で物心がつき、アボジ、オモニと呼ぶでもなく、チョーセンジンとさげすまれることさえもなく、それはあまりにも生命を育くまれないままの一生である。私は現に生きて同世代の累々たる死を一冊の記録の中に見ているのだ。私は生きているのだ。彼等のように死んでしまったのじゃない。
「どうぞ」と、若い女子職員がお茶まで持ってきてくれた。私はあわててタオルで顔を包みながら礼を言った。それはなぜか甘い茶でった。砂糖の甘さとは違う甘さだった。どうしてこのお茶は甘いのか聞いてみる余裕はなかったのである。
生きていればこその被差別の痛みもあれば、甘いお茶の甘みもあるのだ。
私は初めから終わりまで乱れながら半日がかりの作業を終え、逃げるように町役場を出ると、真っすぐに高原川へ向かった。
高原橋に立たずんで見下ろすと、流れは前日同様澄んでいた。まるで過去の出来事なぞ素知らぬ風にゆったりと美しく流れていた。
趙東植 男 溺死 高原橋下流約50間
金海容熙 男 鉱山坑外運搬夫 変死 溺死
三井原杓 男 鉱山坑外雑夫 変死 溺死
亀村点岩千 男 鉱山選鉱雑夫 溺死 高原川
私は叫びたい衝動でいっぱいだった。
高原川よ! 真実を語れ、知っているのなら教えてくれ。この人々が自ら君の所へ飛び込んだのか? それとも酒によって足踏みはずしたのか? 君は水。流れ去ってしまったのか。岩達も矢張り黙り込んでしまうのか。ああ! 高原川。
以下に提出する朝鮮人犠牲者名は1965年8月、神岡町役場に残存した、旧船津町、旧阿曽布村埋火葬認許願綴から書き写したものである。複写機などという文明の利器も出まわっていなかった頃の事で、同胞幼児や、連合軍捕虜までは書き写せなかったのが残念であるが、わずかに知り得ている同胞犠牲者を明らかにして、チョル(礼)に替えたい。
記載にあたっては、姓名、生年月日、職業、本籍地、現住所、死亡原因、死亡年月日、死亡場所の順にする。
江本鐘安 1908年9月9日生 鉱山坑内運搬夫 全羅北道錦山郡富利面冠川里 船津町東茂住「変死 墜落死」1945年5月17日午後5時(推定) 富山県上新川郡福沃村長棟字タレゴ割松尾
金光容錫 1908年7月10日生 鉱山坑外雑夫 全羅北道淳昌郡仁渓面雙岩里 船津町東町「自殺・溺死」1945年6月1日午前6時30分(推定)鹿間
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