北朝鮮がなぜ、「弾道ミサイル」の発射をくり返すのか、中国がなぜ、軍事力強化に力を入れているのか、その理由を聞こうとせず、考慮もせず、防衛費を増額し、敵基地攻撃能力の保有を進めようとする考え方が広がっているように思います。そうした考え方の背景には、安倍政権の日米同盟強化に基づく、攻撃的な防衛政策への転換があるのだろうと思います。
私には、北朝鮮や中国の動きが、アメリカの対外政策や外交政策抜きに語られ、自民党政権が、攻撃的な防衛政策に転換しようとしていることに、主要メディアが正しく反応しているとは思えません。
オーストラリアの北東に浮かぶソロモン諸島が中国と、安全保障協定を結ぶと、即座にアメリカがソロモン諸島に政府や軍の要人を送り込み、援助の強化や関係の強化を働きかけたようです。
だから私は、ソロモン諸島で最大の人口を抱えるマラタイ島で、中国と安全保障協定を結んだマナセ・ソガバレ首相への抗議のデモが起き、参加者の一部が中国人街を襲ったというニュースがとても気になります。アメリカの関与があるのではないかと思うからです。
そうした疑いは、オバマ政権下で国務次官補(政治担当)であったビクトリア・ヌーランドが、「米国は、ソ連崩壊時からウクライナの民主主義支援のため50億ドルを投資してきた。」と発言し、2014年のウクライナ政権転覆にアメリカが深くかかわっていたことが、アメリカ国内でも問題視されたこと、そして、オリバー・ストーンが、プーチン大統領に対するインタビューの中で、ウクライナのマイダン革命に関わるデモの指導者に、お金が支給されていたという証言について語っていることなどから生まれます。
さらに、第二次世界大戦後のアメリカの対外政策や外交政策をふり返ると、その疑いはいっそう深いものにならざるを得ないのです。
アメリカは民主化が進みつつあった戦後の日本でも、突然、「逆コース」といわれる政策に転換し、かつての戦争指導層の公職追放を解除して、戦争指導層と手を結び、影響力を発揮し続けました。
朝鮮でも、建国準備委員会による南北朝鮮一体の「朝鮮人民共和国」の建国を潰し、38度線を設定して、李承晩を中心する南朝鮮単独政府の樹立を支援しました。
そして、アメリカはフィリピンでも、マルコスを支援し、年間、約8500万ドルの対フィリピン軍事援助を支出していたといいます。その援助の多くが正しく使われなかったというのです。下記抜萃文ににあるように、
”それまで軍人給与でかつかつの生活をしていた将校に、材木伐採権や建設事業の契約が降って湧いたように、与えられた。同様に、さまざまな密輸に対する”黙認”と闇ドル市場の支配権も、軍人のものになった。”
というのですから、アメリカの支援は、いったい何であったのか、と疑わざるを得ません。
特に、
”農民たちは、軍部を、自分たちの安全を守る集団ではなく、自分たちに害を加える集団とみなしていた。暗殺事件のあと、こうした軍部観は都市部、とりわけ首都マニラに拡がった。というのも、マニラでは、警察部隊とともに武装した国軍部隊が、反マルコス・デモ隊鎮圧のため大通りに出動しはじめたからである。デモ隊が軍隊に徴発行動をとることはたびたびあるわけではなかったが、大衆は当然のように反軍感情を強めた。最初に投石したのが学生だったか少年だったかは、問題ではなかった。そういうとき反マルコス派の新聞は必ず、丸腰の市民に向って警棒を振り降ろす警官や、銃を構える兵士の写真を載せていた。
街頭での衝突や農村での略奪行為以上に大きな衝撃を市民に与えていたのは、軍隊がマルコスの私兵としか考えられない行動をとることだった。マルコスが戒厳令を布いた上に、兵力を5倍に増強して、将官たちの懐を豊かにし、そのうえ無辜の民を殴り、殺害するよう命じた──というのが市民の見方だった。”
などとあることは、見逃すことができません。
マルコスが、米軍ヘリコプターでマカラニアン宮殿を脱出し、フィリピンを去って、ホノルルで亡命生活を送らなければならなかったことが、アメリカの支援がどういうものであったのかを示しているように思います。忘れてはいけない歴史ではないかと思います。
下記は、「アキノ大統領誕生 フィリピン革命は成功した」ルイス・サイモンズ・鈴木康雄訳(筑摩書房)から、「アメリカの盟友マルコス」の一部を抜萃しました。
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アメリカの盟友マルコス
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いずれにせよ、ラモスがヴェトナムで従軍していたころ、ヴェールはマルコスの側近として仕えていた。ヴェールは、当時上院議員だったマルコスの運転手として出発し、ついには軍事問題補佐官にまでのしあがった。とはいえ、彼の昇進は華々しいものではなかった。彼は長年、大尉の階級に留め置かれていた。それに対し、ラモスの方は、ヴェトナム従軍のあと、輝かしい伝統を持つ国家警察軍の司令官という権威ある地位に任命された。このポストに就いたことで、彼はフィリピン全土にわたる国内治安の責任者になった。ところが、1972年マルコスが戒厳令を発布すると、ラモスの栄光に翳りが生じた。
このとき、最初に大統領の打ち出した措置の一つが、軍の兵力増強だった。彼は兵力を5万8000から一挙に20万強に増員し、軍の機構を全面的に再編した。マルコスは、ラモスと彼の率いるフィリピン国家警察軍をフィリピン国軍の指揮下に置いた。この時以降、マルコスと軍部は切っても切れない密接な関係を持つことになった。軍部がマルコスに忠誠であるかぎり、彼は政権に留まることになるのだ。この忠誠を確保するため、マルコスは、忠誠を示した人々に報酬を与えた。国防予算は8200万ドルから10億ドル近くにはね上がった。アメリカは年間、約8500万ドルの対フィリピン軍事援助を支出していた。その援助の多くが正しく使われず、戦場ではなく、特定の軍首脳のポケットに消えてしまうのだ。それまで軍人給与でかつかつの生活をしていた将校に、材木伐採権や建設事業の契約が降って湧いたように、与えられた。同様に、さまざまな密輸に対する”黙認”と闇ドル市場の支配権も、軍人のものになった。
忠臣の鑑ともいうべきヴェール大将は十分に元をとった。彼はみるみる間に軍位と要職の階段を駆け上り、フィリピン情報組織の元締めである国家情報公安庁(NISA)と、6000人から成る情報部隊の大統領警護司令部(PSC)の二つの組織をがっちり握った。PSCは、大統領とその家族の身辺警護の責任を負っていた。
時の経過とともに、マルコスとヴェールの関係は二人の子供たちに引き継がれていった。大統領の子供のアイミー(イメルダ二世)がイロコスノルテ州選出国会議員、ボンボン(フェルディナンド)が同州知事というふうに、政治的な実権のある地位に就くと、ヴェールの子供も枢要な軍のポストを手に入れた。ヴェール大将には3人の息子がいたが、長男アーウィンは大佐、二男レクソは中佐、三男ウィルロは少佐として、いずれもPSCに所属していた。
なんといってもヴェールの大きな権力の源は、彼がフィリピン全土にわたって握っていた情報網である。大統領の政敵や友人について彼が収集した情報は、マルコスにとって測り知れないほど貴重なものだった。同時に、ヴェールは一家の微妙きわまりない秘密にも関与するようになった。
1981年、マルコスは軍の序列を無視し、後に致命的な過ちとなる決定を下した。彼は、ヴェールを大将に昇進させた上で参謀総長とし、参謀次長にラモスを任命したのである。そもそも、ヴェールは一介の兵卒出身だった。フィリピン国軍の最高首脳に、フィリピン士官学校を卒業していない人物が任命されたのは、後にも先にもヴェールだけだった。ヴェールとマルコスはがっちり手を握り、政治とは一線を画すアメリカ式の軍部の体質を変えて、軍部を大統領制の一部門に仕立てあげた。このときからというもの将官たちは、国家に対する忠誠ではなく、マルコスに対する忠誠によって、どの職責に任命されるか、また、退役年齢後も軍務に留まれるかどうかが決まったのである。
軍の将校達もアメリカもおなじだったが、ラモスは戒厳令の施行にがっかりしたわけではなかった。彼は、法の支配を再確立することが必要であると考えた。しかし、大統領がラモスを飛び越してヴェールを高位に任命したことで、彼の自尊心は傷ついた。それ以上に、ラモスはもっと大きな問題について懸念を抱きはじめた。つまり、一人の大統領と一人の将軍が一身同体となったため、フィリピンは古典的な”バナナ共和国”(独裁国)に転落するのではないか、ということだった。事態は、彼が国家は将来こうあるべきだと考えていた構想と、すべて逆の方向に進んでいった。
ラモスは最高司令官に盾つくような態度はとらなかった。そうした行動は彼の気質にあわなかったからだ。その代わり、彼は自分の殻に閉じこもった。まるで鋳型から抜けてきた兵士のように、礼儀正しく敬礼し、命令が下れば自動的に従い、質問には前もって用意した答えで応じた。胸の内を覗かせることは決してなかった。親友たちは彼がいらだっていることを知っていた。町の噂は、ラモスが退役を申し出たが、マルコスは彼の退役願を却下したと伝えた。ラモスや友人たちからミンスという愛称で呼ばれている妻のアメリタは、夫はだれかが大統領の悪口を言うのを絶対許さなかったと強調した。彼女はある記者に「自宅では、だれ一人マルコスのことを非難がましく言うことはできなかった」と語った。
他の軍人たちもまた、じっと我慢していた。不満は個人的な不平がほとんどであり、主として給料の少なさと昇進の遅れだった。時間がたつにつれ、将兵たちは、フィリピン国民の間で軍隊のイメージがとみに悪くなることに不安を感じるようになった。問題が生じていることは、アキノ暗殺が起る前からすでに農村部で実証ずみだった。農民たちは、軍部を、自分たちの安全を守る集団ではなく、自分たちに害を加える集団とみなしていた。暗殺事件のあと、こうした軍部観は都市部、とりわけ首都マニラに拡がった。というのも、マニラでは、警察部隊とともに武装した国軍部隊が、反マルコス・デモ隊鎮圧のため大通りに出動しはじめたからである。デモ隊が軍隊に徴発行動をとることはたびたびあるわけではなかったが、大衆は当然のように反軍感情を強めた。最初に投石したのが学生だったか少年だったかは、問題ではなかった。そういうとき反マルコス派の新聞は必ず、丸腰の市民に向って警棒を振り降ろす警官や、銃を構える兵士の写真を載せていた。
街頭での衝突や農村での略奪行為以上に大きな衝撃を市民に与えていたのは、軍隊がマルコスの私兵としか考えられない行動をとることだった。マルコスが戒厳令を布いた上に、兵力を5倍に増強して、将官たちの懐を豊かにし、そのうえ無辜の民を殴り、殺害するよう命じた──というのが市民の見方だった。
マルコスは、アキノのことも殺害せよと、軍隊に命じたのだろうか。
突きつめると、どんな問題にもまして、軍部が暗殺に関与したのかどうか、という問題が一部の若手将校の心を悩まし、自分たちの不満を外部に公表しなければならないというきっかけを与えた。
アキノが暗殺される数か月前の1983年初めのことだった。名門フィリピン士官学校を卒業したばかりの若手将校5人が、エンリレ国防相の参謀の一人グレゴリオ・ホナサン大佐の発案で、ときどきマニラ市内で会合を開き、自分たちが感じている軍人生活(および私生活)についての不平不満を話し合うようになった。軍部の改革が必要だという点で、全員の意見は一致した。暗殺事件後、現状に不満を抱くこの小さな将校グループは、メンバー数が急増し、40人にも膨れ上がった。この将校たちは、その後の軍改革運動の指導者となる面々だった。アグラヴァ委員会が解散した1984年末になると、この組織には約1500人の将校が加わった。大尉と佐官がその中心だった。
この将校グループの規模は、軍機構全体と軍の政治指導者の双方に多大の打撃を与えるのに最適だった。クーデターを実行するためにも適した規模だった。東南アジアの他の国、例えばタイの場合、このような将校グループはたちまちクーデターを実行していただろう。不満を感じるフィリピンの将校たちは、もっと話し合う必要があると考えた。それも仲間だけでなく、上官とも国民とも話し合わなければいけない、と考えた。
将校グループが、正式名称と暗号名を必要としたのはもちろんである。当初、「我々は仲間だ」(We Belong)と名乗った。しばらくして、ありふれた感じをあたえるが、あらゆる問題を含めることのできる名称「フィリピン国軍改革運動」と変更された。この「改革」(REFORM)は、軍人精神回復(Restore Ethics)、公平な物の見方(Fair-mindedneese)、秩序(Order)、廉正(Right eousness)、士気(Molale)の頭文字をとってつくられた。その後、この名称は「国軍改革運動」
(RAM)と縮められた。
RAMの若手将校たちは、自分たちの周辺に家父長的存在を探すのにそれほど苦労しなかった。RAMは、一人ではなく、二人の指導者を見つけ出した。ラモスが第一の人物であり、それに次ぐのがエンリレだと、彼らは考えた。だが、RAMの発足直後に、この組織を支配したのはエンリレの方だった。抜け目のなさの点ではラモスをはるかに凌ぐエンリレは、自己の野望を実現していく上で、RAMが役に立つと見抜いた。ラモスの方は、そういう考え方のできない人間だった。彼は依然として、最高司令官であるマルコスに反旗を翻す気は毛頭なかったのである。彼は模範的な軍人であり、ヴェールに次ぐ軍首脳だった。彼の将来とその他多くの事態の展開は、アグラヴァ真相究明委員会の籍でヴェールがどういう戦いぶりを見せるか、にかかっていた。
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