真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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津田左右吉「明治維新の研究」、討幕の密勅は”真偽是非を転倒したもの”

2022年02月05日 | 国際・政治

 津田左右吉は、「明治維新の研究」において、1861年(文久元年)頃からの、薩長の策謀と討幕に至る経過をいろいろな角度から明らかにしていますが、それによると、薩長のかかげた「尊王」も、「攘夷」も、幕府を倒すための手段であり、口実であったことがよくわかります。
 またそれは、”彼らの幕府に対する憎悪の念から生れ出た”ものだとも指摘していますが、薩長が関が原の怨念を引きずっていたという話もあり、頷けます。だから、彼らが”幕府及びケイキ(徳川慶喜)を烈(ハゲ)しく非難し”、”そのいうところは甚だしく事実に背いたものであり、空漠たる方言に過ぎないものであったが、語調は極めて矯激であった。”ということなのだと思います。
 また、1862年(文久2年)の7月頃から、京都を中心に、尊王攘夷急進派による「テロの嵐」が吹き荒れたということは、よく知られていますが、それも、”幕府に対する憎悪の念”がなければ考えられないことだと思います。したがって私は、薩長を中心とする当時の尊王攘夷急進派が、武力をもって幕府から権力を奪おうとする野蛮な集団になっていたように思います。
 ところが、現在の日本では、尊王攘夷急進派による討幕も王政復古も、日本の近代化のためには不可欠であり、当然のことであったかのように受けとめられ、大事なことが十分理解されていないように思います。確かに、諸外国との条約を締結するためには、幕藩体制を廃止し、一国家としての法(憲法)を定めることなどは、避けられないことであったと思います。でも、幕府の関係者がそれを視野に入れ、諸侯会議などで、話し合いが進んでいたという事実は、忘れられてはならないことだと思います。武力で幕府を倒す必要性はなかったのではないかということです。
 また、日本に定着していた”政権を行使せられない”「皇室」の存在が、尊王攘夷急進派によって歪められ、天皇が神聖視されるようになり、権力によって政治利用されるようになったことも忘れられてはならないことだと思います。
 下記は、「明治維新の研究」津田左右吉(毎日ワンズ)から、私が忘れないようにしたいと思った部分を抜萃しました。
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                第四章 トクガワ将軍の「大政奉還」
     三

 ・・・
 このようにして、皇室は国家とともに永久であり、戦国時代の如く政治的に日本がほとんど分裂していた世でさえも、皇室の存在によって日本の一国であることが日本人のすべてに覚知せられていたのである。そうして国民がかかる皇室の存在を誇りとし、それを永遠にもち続けてゆこうとっするのであるから、現代の用語では、皇室の永遠の生命を有する国家の象徴であられ、国民の独立と統一の象徴であられ、また国民精神の象徴であられる、というべきである。これがあ、昔から長い歴史の進展につれて、皇室の本質となってきたことであって、政権をみずから行使せられることが本質であるのではない。かえって、政権を行使せられないことがこの本質の永遠に保たれる所以であって、それは歴史的事実の示すところである。これは久しい前から、折に触れてわたくしのいってきたことであるが、いまここでまたあそれを繰り返すのは、王政復古のことを考える場合、特にその必要を感ずるからである。
 なお付言すべきは、皇室は政治に関与せられなかったから、時勢によって変遷する政治形態や社会組織の如何にかかわらず、よくそれに順応しまたそれを容認して、いつも変わらず国家の象徴、国民精神の象徴としてのはたらきをしておられた、ということである。国民が皇室を敬愛するのは、皇室と国民とのこの意味での結合が遠い昔から後世まで続いてきて、互いに離れがたいものとなっている歴史的感情が、そのもとになっているのである。
 即ち皇室と国民とのつながりは建国の初めからのことだからである。それはシナ風の名分論の如きものの故ではなく、遠い上代人のように、また最近一部の知識人によって非難の意味をもってしきりに宣伝せられているように、天皇を神として見たからでもない(ここで付言しておくが、王政の復古をいうものも神武創業を標語とするものも、天皇を宗教的意義において神視することはしなかった。天皇が神であられるという考えは幕末にはなかったことである)。
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                  第五章 維新政府の宣伝政策

   一
 慶応三年(1867年)の冬、将軍の政権奉還及び将軍職の辞退の上奏が行われた後でも、宮廷ではその善後の処置について明らかな意向をもつに至らず、おのずと幕府に対する処置にも平和の気が漂っていた。ところが、当時の宮廷と複雑な関係(※孝明天皇毒殺説など)があり、その頃には過激な意見を抱くようになっていたイワクラ・トモミが革命的行動を企てるに至って、それが一変した。
 イワクラは薩人(及び間接に長人)と密某を凝らし、また一部の宮廷人と秘かに連絡して、将軍の政権奉還と同日に、既にケイキ討伐の密勅というものを薩長の二藩に伝えさせ、幕府を対すには武力によらなければならぬと主張したのである。ところが、彼はその後さらに一歩進めて、御所戒厳の下にクーデターを行ない、宮廷の権力を握って、王政復古の大号令と称せられるものを発布させた。そうしてそれとともに、彼の党与となった数人の宮廷人、四、五人の諸侯またはその代理者、及びその家臣どもを宮中に召集し、その席上で、君臣の大義・上下の名分を乱したものとして、幕府及びケイキを烈(ハゲ)しく非難した(『岩倉公実記』)。そのいうところは甚だしく事実に背いたものであり、空漠たる方言に過ぎないものであったが、語調は極めて矯激であった。例えば「嘉永癸丑(キチュウ)(※1853年のペリー来航)以来、勅旨に違背し、綱紀を紊乱し、内は憂国の親王公卿伯を幽囚し、また勤王の志士を残害し、外は擅(ホシイママ)に欧米諸国と盟約を立て貿易を許し、もって怨を百姓に結び禍を社稷(シャショク)に貽(ノコ)す、その罪甚だ大なり」というが如きがそれである。これは、志士とか浪人とかいわれらものが数年前から虚偽の言により最大級の形容詞を用いた誇張のいい方によって幕府を攻撃したのと同じであり、畢竟それをそのまま踏襲したものであった。
「嘉永癸丑以来、勅旨に違背し」というのも、「親王公卿伯を幽囚し」というのも、勅旨と称せられた一部の宮廷人の意向(その多くは志士浪人の煽動によったもの)を用いなかったことをいい、また極めて一小部分のものに対する処置を全体に対して行なわれた如く、あるいは謹慎を命じたことを幽囚と称する如く、誇張していったものである。「欧米諸国に対して貿易を許し、怨を百姓に結び」云々に至っては全く誣妄の言であり、「盟約を立て」といういい方も、通商条約の締結を何らかの特殊な政治的意味を有することの如くいいなしたものである。特に「勤王の志士」の語は、彼らみずからを誇らかに宣伝したその称呼をそのまま用いたものであることが、明らかである。かかる志士浪人の徒である、または彼らと気脈を通じている薩人(及び長人)の代弁者としてイワクラは、こういうことをいったものと解せられる。かくして明治元年におけるいわあゆる討幕の軍が起こされるようになってゆくのであるが、それは武力によって幕府を倒そうとするために薩長のしかけた「罠」に幕府がかかったのであって、ケイキは詐謀を抱いてオオサカに下り兵をもって闕下(ケッカア=天子の御前)を犯そうとした、と薩長政府から宣言せられ、大逆無道と目せられたのであある。ケイキは襲職
の初めから皇室に対して臣と称していたし、またみずから進んで三百年近くも宮廷から委任せられていた政権を奉還し、次いで将軍の職も辞し、そうすることによっておのずからいわゆる王政復古の業を誘致しまたは翼賛することになったのであるから、どの点から見てもいわゆる名分を冒瀆した形跡はなく、そう評せられる如き行動をしたことはない。これが虚偽の宣伝であるおとは、いうまでもない。
 ・・・
 あるいはまた外国との交渉をいう場合には、しばしば「国威を海外に輝かさん」とか「万里の波濤を凌ぎ身をもって艱苦に当り、誓って国威を海外に振張し」とか、または「一身の艱難辛苦を問わず
親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂に万里の波濤を拓開し、国威を四方に宣布し」とかいうような語が、慶応四年の正月ないし三月の詔勅または宸翰というものに記されているが、これでは天皇おんみずから海外に進出してその経略の任に当られる意気込みをもたれているように見える。もしそうならばこれもまた当時においては誇張の言と言わねばならぬ。しかしこれはあるいは幕府に対するいわゆる親政の挙を指しているかとも思われるが、もしそうならば、それはまたその意味で甚だしき誇張の弁であろう。

     二
 新政府の宣伝しようとしたこにおいて思想上重要な意味のあるものに、祭政の一致と政教の一致とがあって、それが詔勅の形によって告示せられている場合もあった。これには水戸学の主張であるアイザワ・ヤスシ(会沢安=正志斎)の『新論』の語を用いたものが主となっており、それにヒラタ・アツタネの徒の宣伝した惟神(カンナガラ)の大道の説、なお皇道という名を用いる考え方などが混和せられていて、論理的に一貫しない曖昧なものであるが、要は民心を一に帰して朝廷に奉事させようとするところにあり、そこに政府の政治的意図があったらしい。神祇官に宣教のことを掌らせ、宣教師を置いていわゆる大教の宣布を行なわせることにしたのも、そのためである。古制では神祇官は全国の主要な神社を統轄し、神の祭祀の儀礼を行なう任務をもっているのみであったのを、復活した神祇官には上記の如き特定の思想をもって国民を教化させようとしたのである。
 さてまず考えねばならぬのは祭政一致である。『新論』でしばしば祭政維一(イイツ)という語が用いてあるが、それは祭と政とは本来一つのものであるという思想から来ている。政治は天皇が天の神たる御祖先の事業を継承せられることであり、そうしてそれは即ち御祖先に事(ツカ)えられることであるから、畢竟天の神に対する祭祀である、というのである。いわゆる神道家は、祭(マツリ)と政(モツリゴト)とが同じ語であるという理由で祭政一致を説いたが、『新論』は孝道を説く儒教思想によって、政といい祭という語に特殊の意義を与え、それを天皇における孝道の実現と見たものである。祭政一の語にはこういうようにして、道徳的意義が与えられている。

     三
 政府の首脳部を占めているものは、概言すると幕末の志士浪人輩の後身、少なくともその同調者・推輓(スイバン)者もしくは利用者の類であり、その思想にも処世の態度にも政治に関する行動にも、前身時代の旧習が多く持続せられているので、いわゆる王政復古そのことが、もともと彼らの幕府に対する憎悪の念から生れ出たいわゆる尊王の主張に基づいたものであるのみならず、彼らのふとした思いつきや一場の私言が忽ち叡慮とか勅諚とかの名によって宮廷から発表せられ、そうしてその内容には虚偽と誇張とが充ち、その表現には徒らに強い調子が用いられ、そうしてまたそれには彼らの間に激しかった党争心・権力欲などから生ずる排他的感情が籠っていたことを考えると、新政府の宣言や行動が上記の如くなるのも怪しむべきではなかろう。いわゆる志士や浪人の徒が無根の風説を世間にまき散らしたのも、威嚇や私刑を行なって投書や貼り紙や立て札などによってそれを公衆に宣伝したのも、威嚇や私刑やその他の種々の暴動も、それみずからが大きな宣伝の用をなしていたことも、あるいはまた彼らの後援者または指導者であった長藩の政府がしばしば諸藩に対して自己を弁護し幕府を非難した宣伝文書を送致したのも、種々の文書によって宣伝に努めた薩長政府の態度を導き出したものと推考せられる。政府がかかる態度でかかる宣伝を行なったことは我が国では、このときに始まったといってよい。幕府においても、例えば貨幣の改鋳の場合の如く、虚偽の宣伝を行なったことはないではないが、それは稀なことで、あった。武人政府(※幕府)は言論の力をかりるよりも実行を主としたのである。王政復古まあたは王政維新は、本来思想上の革新であるのに、その指導者に、誠実にして確固たる識見を有する思想家がなく、軽浮にして無識な志士浪人輩、もしくはそれと気脈を通じそれと呼応して事を起こしたものの盲目的行動によってすべてが進行したのであるから、新政府のしごとが上記の如きものとなったのは、当然であろう。
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                  第六章 明治憲法の成立まで
     一
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 衆議によりまたは民意を聞いて政治をすることは、トクガワ幕府においても無視せられたのではない。町民または村民の間に「寄合」と称せられた住民の相談によって町政または村政が行なわれ、あるいは庄屋年寄などを住民の投票によって選挙する習慣のあったところもある。士民の階級的区別はあるが、知能あるものは平民でも官途に就いてかなりの要地に上るものがあり、農商の徒でも武士の身分を与えられるものがあって、儒官などは概ね農商出身のもので占められている。また婚姻によって武士の血が平民に混入する例も多い。なお幕府の家人においては、金銭養子、株の売買、「または婚姻によって平民の血が武士階級に混入することも常であって、それは直接に政治にかかわることではないが、武士と平民とが必ずしも厳格に隔離せられていないことを示すものであり、「そうしてそっこに幕府の政治に一味の民衆的要素のあることが示されていよう。もともと戦国武士そのものに百姓町人からの成り上がりものが少なくなかったのである。
 ・・・
 ところが、対外問題が起こってから後には、幕政において衆議に諮ることが際立って著しくなてきた。その一つは、対外関係を如何に処理するかについて諸侯の意見を聞こうとしたことである。その最初は、嘉永・安政の交の首席老中アベ・マサヒロの意向により、諸侯を殿中に召集してアメリカ大統領から将軍に贈った文書を示し、それに関する各自の意見を諮問したことであるが、その回答は文書で上申するのであって、殿中に会議を開いたのではない。そうしてその回答は、必ずしも諸侯の意見を披歴したものとは限らず、海外に関する知識の乏しいために定まった意見がないもの、またはありきたりの攘夷論で間に合わせておくもの、武士としての諸侯の面目を立てる強がりをいったもの、または封建諸侯としての地位を損ずることを恐れるための矯飾の加わっているものなどもあって、諮問の目的は達せられなかった。ただ重大の事件を処理するについて、被治者たる諸大名の意見を聞こうとした幕府の態度を示したのみのことであった。
 ・・・
 その後、いわゆる志士浪人の徒が大言壮語をもって荒唐不経な尊王攘夷の説を唱え、宮廷人の間に遊説して幕府の執った国策を撹乱もしくは破壊しようと企てるに至って、彼らはその主張し揚言するところをみずから「天下の公論」と称したので、文久二年(1862年)にチョウシュウ侯から幕府への建白に、幕府をして「列藩並に草莽の士の所存、天下の公論」を聞かしめようとしたことが見え、サツマのシマヅ・ヒサミツの宮廷への建議にもやはり「天下の公論」の語が用いてあるのは、それに従ったものである。しかしその草莽の士の「公論」というものは、徒らに囂々として幕府攻撃の声を挙げるのみのことであって、何ら具体的な経綸の策を含むものではなかった。のみならず、それに伴って幕府の当路者や外国人を要撃または暗殺したり、おのれらに不利な言動をするものを殺傷したり、凶悪の限りを尽くしたので、公論たる意義は何もなかった。
 ・・・
 これに反して内政はますます紛糾を加え、幕府を敵視するものが自己の主張を飾るに公議の名をもってするようになり、この点において文久の頃から「草莽の士」の口にしたことがそのまま彼らの言動に継承せられている。しかしまた幕府の側においてもおのずからこの流行語が襲用せられ、将軍の大政奉還の奏請にも現に「天下の公論」の語が使ってある。その前後の宮廷及び幕府の文書には、事あるごとにこの文字または衆議というような語が用いられているので、文字は同じであってもその指すところは反対であることが少なくない。またその具体的な施設としては、列侯、またはそれとともにその家臣の会談を開くことが強調していわれているので、衆議も公論も諸侯とその家臣との意向を指しているのでああるが、宮廷の方面から発せられたものには、列侯の会談といってもその実、薩長を主としてそれに引きずられているものを含む四、五の諸侯及びその家臣の会合にとどまるものが多く、宮廷においてはその点を指摘せられて弁解のできなかった場合がある。「天下の公論」も「衆議」も畢竟薩長及びイワクラ一派の宮廷人の宣伝に過ぎなかった。これが大政奉還の後において宮廷方面の文書に見える「公論」「衆議」の実体であった。

    


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