通化事件の真実
通化事件に関しては、中国共産党八路軍の違法行為や残虐行為ばかりを指摘する人が多いように思います。しかしながら、当時通化にいた一般の日本人の多くは、「共産軍に攻撃をしかけなければ日本人は殺されることはなかったのに」と、日本人の「無謀な反乱」にくやしさを噛みしめていたといいます。その一言が、この事件の真相を物語っているように思います。
敗戦後、満州各地では、日本軍が支配していた地域をめぐって国民党軍と共産党軍が戦争をくり返しました。ソ連参戦後に、関東軍が司令部を通化に移転したこともあって、通化には大勢の日本人が集まっていましたが、その通化で、国民党軍と共産党軍の勢力が激しくぶつかり合い、進駐してきていたソ連軍が通化を去るころには、国民党にかわって共産党の八路軍が通化をほぼ支配下においていたといいます。でも、共産党の方針に不満をいだく日本人も少なくないため、国民党軍はそうした日本人と手を結び通化を奪い返そうと密かに動いていました。そんな状況下、通化事件が起きたのです。
それは、中国が祖国を取りもどし、はじめて迎える正月のことです。戦争に負けた日本人が、それも正月に、再び共産党八路軍の司令部を攻撃するなどということは、一般の中国人や日本人には、考えられないことだったのではないかと思います。
「通化事件」が日本で報道されたのは、昭和27年12月4日で、厚生省復員局の調査がきっかけだったようです。下記は、当時の朝日新聞の記事ですが、「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明(新評論)の著者は、この記事が事実を正しく伝えていないことを指摘しています。
【福岡発】昭和21年2月満州で日本人多数が虐殺されたと一部に報道された「通化事件」について、引揚援護庁と外務省で4年間にわたり調べた結果詳しい内容が判り、2日同事件の合同調査のため来福した引揚援護庁復員局吉田留守業務部長は福岡県庁で次のように発表した。
・昭和20年8月ソ連の参戦とともに満州各地から避難したものなどで通化市内の日本人は3万名以上に上った。同年9月進駐した中共軍の日本人に対する虐殺暴行はひどく、元百二十五師団参謀長藤田実彦大佐らが中心になって元軍人、邦人などを集め中共軍諸機関を攻撃する計画を立て21年2月3日を期して攻撃を決行、400名のうち大部分が戦死した。
中共軍は日本人男子は15歳から60歳まで、女は攻撃に関係あると思われるものなど合計約3000名が投獄され、その大部分が処刑されたとみられる。
・いままでに判った死亡者は約1190名で、死亡公報の済んだものは72名、帰還者は863名である。
司令部を通化に移転していた関東軍は、本国からの命令に従い、8月16日、自ら武装解除を進めました。ところが、第百二十五師団の参謀長であった藤田大佐が、命令に反抗して行方を眩まし、元軍人や仲間を集めて、共産党八路軍司令部その他を攻撃をしたというのです。藤田大佐は国民党が組織した軍政委員会の軍事部長になっていたということも見逃すことができせません。敗戦後6ヶ月近くが経過していたのに、藤田大佐は「決起指令書」発し、攻撃を実行したのです。それが、事件と関わりがなく、帰国を心待ちにしていた大勢の日本人を巻き込む結果となり、冒頭の「共産軍に攻撃をしかけなければ…」ということにつながるのです。
通化事件に関する下記の文章は、「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明(新評論)から抜粋しました。
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三 虐殺
日本人の無謀な反乱
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敗戦当時、 通化にいた関東軍の主力は第百二十五師団で、藤田大佐は参謀長という作戦を指揮する責任者だった。しかし、大佐は無条件降伏の命令にはんこうしてゆくえをくらました。
そのころ、たしかに通化は共産党軍の支配下にあった。しかし、国民党のスパイたちは、八路軍にたいする日本人の不満を利用してまき返しを図ろうとやっきになっていた。当然藤田大佐やもと軍人たちとのつながりもあった。柴田大尉の衛生隊や航空隊のなかにも、こうした勢力とつながりを持とうとする動きがあった。絶望的ななかでわらをもつかもうとする血気にはやる人たちもいた。
一方八路軍側はこうした国民党のスパイや、彼らに協力する日本人を残らず取り除きたいとその機会をねらっていた。……… こうした異なる立場のそれぞれの人たちの期待が、むぼうな藤田大佐を中心に、通化の日本人たちをひさんな事件にまきこんでいった。
大人たちの話をまとめてみると、こうだった。
-----2月3日午前4時、決起隊が変電所をしゅうげきした。電気を3回つけたり消したりして攻撃の合図を送り、そのあと全市を停電させた。一方、市内を見下ろす玉皇山(ギョッコウサン)に向かった一隊は、頂上で合図のノロシを上げた。
攻撃の目標は、八路軍司令部や満州国宮内庁の重要人物が収容されている公安局、もと通化憲兵隊あとの監獄などだった。うわさどおり、柴田大尉の衛生隊と航空隊の何人かが反乱軍に加わったという。さらに、市内にひそんでいたもと日本兵や血気にはやる若い人たちのほか、おどかされたり、だまされたりして参加した人たちもいた。しかし、銃などはほとんどなく、武器は日本刀やオノ、棍棒だったという。決起隊は、すでに情報をつかんでいた八路軍の銃弾の前になすすべもなく倒れた。
通化事件の第一幕は、こうして終わった。
だが第二幕の主役は、息をひそめてただひたすら帰国の日を待ちつづけていた無力な日本人たちだった。八路軍はあやしいと思われる日本人をかたっぱしからつかまえた。逮捕された日本人は3000人をこえた。死亡者の数は発表する機関によってまちまちだったが、その後の八路軍の発表によると、銃殺された人を入れて1200人をこえるといわれる。
二道江の社宅からも大勢のひとたちが逮捕され、ひさんなさいごをとげた人もいる。逮捕された人たちは、初め二道江国民学校に連れていかれた。逃げないようにふたり一組にして、背中合わせにしばられたという。3日間、食べ物を与えられず、なぐられたりけとばされるなどきびしい取り調べを受けた。
父が仲人をした林業課のイイズカさんのおじさんが、そのときのことを話してくれた。
「となりの教室から、調べられている人の悲鳴が聞こえてくる。板の間にせいざさせられて、事件のことを知っているだろうと聞かれる。知らないと答えると、木刀でようしゃなく打ちすえられる。ごうもんにたえかねて、二階の便所から逃げ出した人がいた。ところが、いっしょに便所に行っていた人まで、おまえが逃がしたのだろうといわれて、ぼくらの見ている前でうち殺された」
イイヅカさんは、さいわい疑いがはれて帰宅を許されたが、さらにそこから通化へ連行された人たちも大勢いた。
「うぐいす台」で長女のユキコと同級のタシロさんのお父さんも、その途中で殺された。きびしい寒さのなかで、お父さんはしだいに体力をすり減らし、くずれるように雪のなかに倒れたという。
「そのとき、うしろのほうで銃声が…」
父の大学のこうはいのマヤザキさんのおじさんも、そのなかにいた。おじさんはきせきてきに許されて、連行されたときの雪道をたどり二道江にもどってきた。
「何人かの人といっしょに、タシロさんがうたれた場所をさがしました。ようやく、雪のなかにうずもれているタシロさんを見つけると……、ひどすぎる……」
ヤマザキさんは声をつまらせてメガネをふいた。
「何者かに洋服やくつをはぎとられ、ハダカ同然の姿になって……」
なにしろ3000人もの日本人が逮捕されたのだから、留置場もひさんをきわめた。
「まったく、あれはジゴク……ジゴクそのものです。何百人という日本人がせまい留置場に押しこめられ、身動きひとつできない。そのうち、飢えと寒さで気がくるい、大声でわめいたり泣きさけぶ人たちがでた。そうすると、パーロ(八路軍)が窓から銃の先を向けて、だれかれかまわず無差別に発砲を始める。まったく生きたここちがしなかった。……ほら、これがそのとき、弾にうたれて死んだとなりの人の返り血ですよ」
ヤマザキさんのおじさんはそういって、そでについている黒っぽいしみを指さした。
当時、公安局に監禁されていた満州国皇帝の弟、溥傑(フケツ)の妻浩(ヒロ)は、『「流転の王妃」の昭和史』(「主婦と生活社)のなかで、そのときのもようをこう記している。
私たちは、穴だらけ、破片だらけの、この公安局の部屋で、零下30度の寒気に慄えつつ一週間も暮らさねばならなかった。窓から見ると、川岸に一人ずつ並べられた日本人が、後から射殺される姿がみえ、その銃声をきく度に私の顔は苦渋に歪んだ。服をはぎとられた後、その死体は川に落とされるのである。凍った川の上には、そんな死体がごろごろ転がっていた。銃殺は、二日間続き、凍った死体は数日後に荷馬車に積まれて、どこかに運び去られていった。
2月9日、だまされたりおどされたりして事件に参加した日本人およそ1000人が許されて留置場から出されることになり、政治委員の杉本一夫があいさつに立った。
「これまで、君たちはどれだけ中国人に申しわけないことをしてきたか。日本がこうさんしてから、中国の民主政府は君たちをどうあつかったか。君たちに仕事をあたえ、こまることがあれば援助の手をさしのべてきたはずだ。なぜ、君たちはぜんぴをくいず、国民党特務の孫耕暁や藤田にそそのかされて反乱を起こしたのか。こうした恩知らずのこういは、一日本人としてはずかしく思う」(『彼らはなぜ中国で死んだか』)
最高責任者の孫耕暁(ソンコウギョウ)は国民党側のパイプ役、ナンバー2の藤田大佐は軍事面の責任者だった。孫は事件の前日逮捕され、暴動のさなかに処刑された。取り調べには杉本も立ち会った。杉本は命令書のほんやくにあたり、共産軍のなかで国民党とつながっている者の洗い出しをした。そのなかに、航空隊の小林、鈴木両中尉の名前があり、兵隊に命じて逮捕に向かわせた。
藤田大佐は事件のよくじつ、民家の天井にかくれているところを朝鮮義勇軍によって逮捕された。藤田とともに関係者30人あまりが天井にひそんでいたという。
事件のあと、『通化日報』が共産党の呉政治委員に「反乱の真相」をインタビューした。政治委員は事件の真相を見ぬいていた。
「日本との8年間におよぶ戦いで、国民党は日本人のワナにはまり、ひどい目にあわされてきた。敵は国民党をたたいたり、だきこんだりする政策をとった。だが、今度は日本人が国民党にしてやられた」
その後、通化市内のデパートで事件に関する武器や命令書、ビラなどが展示された。そのなかに、航空隊の林少佐が事件の関係者におくったとされる軍刀があった。
藤田大佐は、首から札を下げてすわらされ、見物人に頭を下げ謝罪していたという。札には犯した罪が記されていた。
こんな無謀な暴動さえ起こさなければ、無実の人たちが殺されることはなかった。関東軍の参謀長という、いわば作戦を立てる責任者までした人が、いったい何を考えていたのだろう。こりかたまった考え方をかえることはむずかしいとしても、なぜ冷静に兵力のぶんせきができなかったのだろう。
二道江の日本人たちは、にえくり返る思いでそのうわさを聞いた。その気持ちは通化の中国人も同じだと思う。うばわれた国土が日本の降伏によってようやく取りもどすことができた。2月3日は、その記念すべき最初の正月だった。その日、またしょうこりもなく日本人が攻撃をしかけてきたのである。
あの朝日新聞の記事では、藤田大佐は「中共軍の日本人に対する虐殺暴行」に立ちあがったえいゆうのように見える。
記者は、中国がふたつの勢力がはげしくぶつかりあう内戦のただなかにあったことを見落としている。共産党軍と国民党軍は、まさに「殺すか殺されるか」の戦いの真っただなかにあった。どちらかのグループと手を結び反乱を起こせば、きびしい仕返しにあうのは当然といっていい。つまり、「中共軍の日本人に対する虐殺」は、内戦相手の国民党と手を結んだ日本人にたいする報復だったのだ。
あとから話を聞くと、事件当時、共産党軍の主力部隊は通化市をはなれて作戦を展開しており、きょくたんに手うすだった。残っていたのは、自分から入隊を希望して兵士になった朝鮮義勇軍の兵士が大半で、それも400名ほどだったという。ほとんどがまだ十分に訓練されていない戦争の経験のない兵士が多く、当然、日本人にたいする恐怖心もあったと思う。だから、反乱が起こった当初は、日本人を針金でしばったり、ひどいごうもんを加えたり、上司の許しもえずその場で銃殺するなど、らんぼうな行動が目立った。のちに司令部がその事実を知り、きゅうきょ「銃殺中止命令」を出したという。しかし、それまでに銃殺された人のなかには、事件に関わりのない人たちも大勢いた。その間、事件のえいゆうは、天井裏に息をひそめてかくれていたのだ。
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