真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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薩長の策略 王政復古の大号令

2018年11月06日 | 国際・政治


 私は、昭和のあの悲惨な戦争は、長州を中心とする尊王攘夷急進派が、政権を奪取した結果、もたらされたのではないかと思っているのですが、『もう一つの幕末史 裏側にこそ「本当の歴史」がある!』半藤一利(三笠書房)に、見逃すことの出来ない文章を見つけました。それが、資料1です。

 取りあげられているエピソードが、誰の口から出て知られるようになったのか、また、登場する人物や会話の内容が正確なものであるのかどうか、私は知りませんが、尊王攘夷急進派の”尊王攘夷”が、倒幕のための「口実」であったことは、歴史が証明していると思います。

 尊王攘夷急進派は、「口実」として尊王攘夷を掲げ、倒幕を煽ったばかりではありません。支持を得るため、出来もしない「年貢半減」を触れ回り、「江戸攪乱工作」なども行って幕府を追いこんでいったのです。また、「偽勅」として知られる「討幕の密勅」や「偽錦旗」利用の事実も忘れることができません。尊王攘夷急進派は、幕府を倒すために人を欺き、あらゆる謀略・策略をめぐらして幕府を倒したのだと思います。特に注目すべきは、幕末に攘夷を掲げて、野蛮極まりない「暗殺」や「異人斬り」をくり返した事実です。「孝明天皇毒殺」も尊王攘夷急進派の手によるものであろうと思います。政権奪取後は、手のひらを返したように開国政策を進めましたが、幕末の人命軽視や、人を欺く謀略・策略は、その後の日本に受け継がれていくことになってしまったのだと思います。

  徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上した「大政奉還上表文」が、坂本龍馬の「船中八策」や「新政府綱領八策」及び「五箇条の御誓文」とも極めて似通っていることは、すでに確認しました。加えて、「大政奉還上表文」に至るまでに、幕府関係者が深めていた新たな日本の構想は、西南雄藩のそれをはるかに超えるものであったということも、わかりました。
 それは、「日本の近世 18近代国家への志向」田中彰編(中央公論社)で、松平乗謨津田真道西周などの国家構想を取りあげ、明らかにされています(資料2)。
 幕府は、内戦を避けて幕府独裁制を改革し、諸侯らによる公議政体体制を樹立しようと準備を進めていたのです。その一端が、慶喜の「大政奉還上表文」で示されたということだと思います。
 しかしながら、薩長倒幕派は、諸侯会議で話し合うことを拒否し、クーデターによって権力を奪ったということだと思います。ほんとうは、「倒幕」はもちろん、「戊辰戦争」も必要なかったのだと思います。
 諸侯会議によって、幕政の改革がなされていれば、向学心に燃える多くの優秀な若者たちによって、列国に並ぶ日本がつくられ、野蛮な侵略戦争の結果としての「敗戦」はなかったのではないか、などと想像します。

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                         「尊王攘夷は幕府を倒す口実よ」

 

 ある意外なエピソードから始めるとしましょう。
 倒幕運動もいよいよ大詰め、話し合いによる解決策を蹴飛ばして、戦争を覚悟した薩摩と長州が、幕府に武力攻撃を仕掛けんとする鳥羽・伏見の戦いの直前のことです。
 岩倉具視が、薩摩藩士で西郷隆盛の側近中の側近だった桐野利秋(当時は中村半次郎)に、
「この戦が終わったら、つぎは攘夷をせねばならないが、その手配はできているのか」
 と問うた。中村は「えっ」という顔をしました。まだ攘夷などということを本気で信じているのか、というわけです。
「攘夷など倒幕のための口実で、その実、決して攘夷をするのではなく、むしろ世界各国と交通して、西洋の長をとり、わが国の短所を補い、ますますわが長所を発揮して帝国の威光を宣揚せねばなりません」
 と中村は得々と述べ、あっけにとあっれている岩倉を残して外に出ると、今度は同行していた薩摩藩士の有馬藤太が「攘夷はせぬと言うたがあれは本心か」と血相を変えて詰め寄ってきました。
「お前、まだ先生(西郷)から聞いていないのか」
 という中村の答えに、有馬はびっくり仰天し、さっそく西郷さんのところへ飛んでいくと
「あー、お前にはまだ言うてなかったかね。もう言っておいたつもりじゃったが。ありゃ手段というもんじゃ。尊王攘夷というのはね、ただ幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷と言うて、ほかの者の志気を鼓舞するんじゃ。つまり尊王の二字の中に倒幕の精神が含まれておるわけじゃ」
 と真意を話したーーというのです。
 幕末史を考えるとき、このエピソードは示唆に富んでいます。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          競合する統一国家構想

欧米政治体制の知識の流入

 新幕藩体制下といえども、オランダ・中国を通して、欧米の政治体制の知識は流入していた。
特に、蘭学から洋学へと発展してからはその情報量は急速に増大していた。

 要因の一つは幕藩体制の行き詰まり、また、幕・朝・藩の力関係の変化がある。
さらに、隣国中国におけるアヘン戦争にみられるような、東アジアに迫る欧米の外圧に対する危機感である。
 そして、「黒船」来航以降は、一部知識人のみならず、広汎な層にその危機感が広がり、新政治体制が模索されていく。

新政治体制の模索

 蕃書調所教授手伝 加藤弘之の『鄰草(トナリグサ)』をみれば、彼が外圧の危機感のもとに新しい政治体制を模索していたことは明らかである。加藤は「上下分権の政体を立て公会を設けん」という。そのためには「能く西洋各国の政体を穿鑿(穿鑿)し、取捨損益して其至良至善なる所を求むべきなり」と主張したのである。西も津田もその結論には異論をさしはさんでいた。

 右の加藤・西・津田とも接触のあった幕府の開明派の一人大久保忠寛(タダヒロ)<一翁>は、、文久期から「公議所」の設置を主張していた(文久三年十月、松平慶永あて書翰)。大久保の「公議会論」によれば、大公議会と小公議会とに分かれ、前者は京都あるいは大阪に設けて、諸大名を議院とし、国事を議せしめ、後者は江戸その他の各都市に設置して地方議会とするものだった。

松平乗謨(ノリカタ)の政体論

 老中松平乗謨(大給恒(オギュウユズル)1839~1910、兼陸軍総裁)の起草になる1867年(慶応三年)十月十八日の意見書(「松平縫殿頭見込書」。「病夫譫語(センゴ)」ともある)は、大久保の「公議所」論をさらに具体化したものといってよい。(『淀稲葉家文書』334~342ページ)。

 その特徴の要点は、第一に、なぜ彼がこのような意見書を提案するかという状況について述べていることを指摘できる。

 彼は当時しだいに高まりつつあった「王政復古」論に疑問を呈し、「至当公平の義」を尽くさなければ実現するものではないことを強調する。なぜなら、国政の一本化がめざされているにしても、それを主張する根拠は必ずしも一つではなく、「地球之形勢駸々(シンシン)開化に向」かう時の「道理」とみるもの、陰謀策と考えるもの、一挙に「西洋開化之風」を行おうとするもの、あるいは情勢をまったく知らないで「売国」的行為をしているものなど、さまざまだからである。しかも、そのいずれもが「尊王」の名をふりかざしているのである。

 彼はいう。
「乍去(サリナガラ)王制と申候而(テ)も是迄御国内丈(ダケ)すら平治相成難、先轍の様ニ而は迚(トテ)も外国御交際ヲ全(マットウ)し御国光輝セ候義ハ萬々(バンバン)覚束(オボツカ)無候」と。

 第二に、次のような「王制」をつくることの必要を提示する。
(1) 全国および「州郡」に上下の議事院をつくる。全国の上院10名は諸大名から人選し、下院30名は大小名より「無差別」に人選する。「州郡」の上院(10名)は大小名より、下院(30名)は藩士をふくめて広く人選する。人選はすべて入札(選挙)による。
(2)国政に関してはすべて、上下院の議を経る。7その決定事項には「主上も御議論在為被不(アラセラレズ)候様之義」とする。
(3)「全国守護之兵」(海陸軍士官)を設置する。そのために、新しく海陸軍を設け、各地の要所に配置する。その士官(全国守護兵)は大小名・藩士等のなかから広く人選し、「強勇にして志あるもの」を選ぶ。費用は諸大名および諸寺院の高三分の二を納入させ、また商税等をふくめて広く一般からも取り立てて当てる。この兵の取り立てを拒否するものは「奉朝廷之命其罪ヲ糾問」し、処罰する。
 
 要するに、この案は、「蒼生之言路ヲ塞ガズ、御政事寛(ユルヤカ)ニシテ公明正大に成サレ、全国ノ力ヲ以(モッテ)全国ヲ守リ、全国之財ヲ以全国之費用ニ当テ」て、「天下は一人の天下ニあらず、天下萬民之天下」にしようというものだった。それは「私権を捨て皇国一致の法を設くべく」ともいわれているが、要は各藩の「私権」を中央政府に収斂し、軍事力もそこに集中しようというものなのである。
 朝廷と中央政府との関係は明らかではないが、石井孝は、この体制は「徳川元首制のもとで、諸大名は、その一家を扶養する以外のすべての禄を軍事費をはじめ教育費、殖産興業費等に提供させられ、武士集団が解体されて、全国守護兵にこれは、あてられる。まさに領主制の否定である」(『増訂明治維新の国際的環境』747~748ページ 1966年)という。

津田真道の「日本国総制度」
 この松平乗謨 の意見書の出された前月、つまり1867年(慶応三年)九月に津田真道(1829~1903 津山藩。1857(安政4)年蕃所調所教授手伝並となり、1862年西周とともにオランダに留学)の「日本国総制度」(『憲法構想』所収)が、「開成所教授」の名において「根本立法」(憲法)として幕府に提出されている。

 この津田の「日本国総制度」は、第一に、江戸に「総政府」をおき、この「総政府」は、国内事務(学校、道路、宿駅、水利)・外国事務・海軍・司法・寺社・・財用(貨幣鋳造)の政務を司る(以上の用語はすべて原文)。この「総政府」の「大頭領」は、同時に「日本全国軍務の長官」なのである。そして、諸政務は各局の「総裁」が執行するが、この全国政令の監視は「制法上下両院」がする。
 第二は、この「制法上下両院」は「制法の大権」を「総政府」とこの両院で分掌し、「極重大之事件は禁裡の勅許を要すべき事」としていることである。この「制法上院」は一万石以上の大名、「制法下院」は「日本国民の総代として、国民十万人に付き壱人づつ推挙する」と規定している。「総政府」と両院との「制法」の分掌は具体的には不明である。
 第三に、各国を「禁裡領山城国」と「関東領」および「加州以下列国」の三つに分け、「関東領」は世襲の徳川氏の所管で、「大君」つまり徳川氏が特権として「政令」を定めることができる、とする。この「関東府」の政務は、関東事務・陸軍・財用(会計)・奥向と規定され、陸軍は徳川氏が専管しつつ、前述の「全国軍務の長官」を兼ねている。一国内(各藩内)の政令は、各国持大名が全権を握っているのである。
 要するに、この津田案は、徳川氏に全国を管轄する「総政府」(行政府)の長として軍事権を掌握させ、立法はこの「総政府」と「法制上下両院」とが分掌し、この両院の諸大名や全国民の総代(十万人に一人)が参加するという仕組みなのである。
 徳川慶喜を中心とした全国政権としては、松平乗謨構想と共通している。これらの構想の集大成が、次の西周(1829~1897、津和野藩。1857<安政四>年蕃書調所教授手伝並となり、1862年津田とともにオランダに留学、帰国後開成所教授)の「議題草案」といえる。

 西周の「議題草案」
 この「議題草案」は、第十五代将軍徳川慶喜による「大政奉還」後、幕府側が政局の巻き返しを図ろうとして画策していた1867年(慶応三年)十一月に、慶喜側近の平山敬忠(ヨシタダ)(図書頭(ズショノカミ))まで差し出されたものと推定されている。
 西は「大政奉還」の前日、慶喜に呼び出され、国家体制における三権分立やイギリスの議院制度などについて聞かれ、詳細なヨーロッパの管制にに関する手記を提出したという。西の立案になるこの「議題草案」は、そうした慶喜の意向を受けてのことと思われるがが、それは当時の幕府首脳の発想を反映していたものであろうことは、これまでの幕府側で構想された諸案の流れのなかにこれをおいてみれば十分納得できる。
 「議題草案」を図示すれば、頭のようになるが、若干の補足をしておこう。
「大君」は、(1)元首として行政権を掌握し、(2)「公府」の人事や政令・法度の権限をもち、賞罰権を握る。そして、(3)上院の議長であり、(4)下院の解散権ももつ。この両院での議決がくいちがった場合には、「大君」が決定に絶大な権限を行使できると解釈しうる条文もある。(5)江戸には幾百万石という幕府直轄地の政府があり、「大君」はこの政府の長でもある。(6)実質的には全国の軍事の指揮権を「大君」は有する。
 上院と下院に分かれている「議政院」の立法範囲は、(1)綱紀・制度、(2)課税・税収、(3)臨時の会議、(4)外国との条約、(5)全国的な市井令・刑罰令・商売令・違反告訴令、(6)「公府」関係法・貨幣令・その他の雑令等にまで及ぶ。つまり、この議政院あらゆる立法の権限を握っているのである。
 天皇には法度の欽定権はあるが、拒否権はない。その権限といえば元号・度量衡・宗教の長・叙爵などのほか高割(タカワリ)による山城国内の兵備をおく権限(支配の実権は政府)や大名よりの献上を受ける権などである。だから、天皇には実権はなく、山城一国におし込められた形である。
 以上のような国家体制の頂点にある「大君」はトルコのスルタンやロシアのツァーになぞらえられる存在とされており、この「大君」には徳川氏(慶喜)が比定される。それは徳川氏が絶対的な権限をもつ徳川統一政権といってよい。幕府側には明らかにこうした具体的な構想があったのである。

 構想の乏しい西南雄藩
 では西南雄藩側ではどういう構想をもっていたのであろうか。佐賀藩勤王派の一人中野方蔵(ホウゾウ)(1835~62、晴虎)は、大木喬任や江藤新平らとも交友があり、1862(文久二)年、大橋訥庵(トツアン)の疑獄に連座して獄死した。それ以前に書かれた「方今形勢論」は「王政」の「恢復(カイフク)」をめざし、「天子」が「征夷将軍の号を諸大藩に賜ひ、或は肥前将軍と称し、或いは薩摩将軍、或いは肥後将軍、或いは常陸将軍、或いは尾張将軍、或いは長門将軍と称し、凡そ六十余州の大藩を挙げて悉く将軍となし、小藩をして悉く副将たらしめんか、是に於てか人心大いに定るなり」(原漢文)と述べていたのである。(中野邦一『中野方蔵先生』私家版 1936年)。
 この「天子」のもとでの「総将軍」化は、明らかに幕藩体制の幕・朝間の力関係の変容および雄藩の台頭を念頭においた新しい国家対策への方向を示していたものだった。
すでにみてきたように、現実に権力を握っていた幕府側やその周辺では徐々に具体的な国家構想がうち出されはじめていたが、尊攘運動や倒幕運動を進めた西南雄藩側からの新しい国家体制構想は、せいぜいこの中野の国家構想程度で、具体案は乏しい。
 それは薩摩藩出身の寺島陶蔵(トウゾウ)(1832~1893、宗則(ムネノリ)。渡英帰国後、幕府の開成所教授)が、1867(慶応三)年十一月二日、「抑(ソモソモ)勤王を唱へ候に、此上もなき忠節を尽さんには、其封地と其国人とを朝廷に奉還候而(テ)、自ら庶人と相成、後之撰挙之有無を期し候に越したる事者(コトハ)之無く、是如くにして、始めて公明正大なる勤王の分と謂(イ)ふべしと、私(ヒソカニ)に愚説立置き申候」(『寺島宗則関係資料集』上巻18ページ 1987年)と述べていることと関連するだろう。ここにみるように勤王論は、幕府にかわる朝廷(天皇)への土地・人民の「奉還」という形で、すべてを天皇に収斂する発想と価値観の観念性は、朝・幕関係の変容にともなう公武合体論台頭によって徐々に現実論として克服されていくが、結局、慶応末期の倒幕の土壇場まで、それはまたなければならない。

 

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