☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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「5月3日 【後編】 イサさん、団十郎の道成寺に感激!」

2020-05-03 16:06:14 | 『都見物日記』

 ↑トップ画像は、5月19日、20日に入手した書籍から📚('20.6.10 追加掲載)

この日の日記前半では歌舞伎座見物に只々感心感激のイサさん、

後半冒頭では、ここまでの旅のお天気をちょっと振り返ってみた様ですが……。

 

『都見物日記』(四)‥‥ ③【後編】

 五・三(つづき) 鹿児島出発の折 天気よく、船上もあしき天気は稀の事也。西京 少々乃見物には天気よし、伊勢参詣の日もよし。其外はあしく のさず(※傍点有り)〳〵〳〵。今日も終日雨にて 帰りもせわぜわ敷、歌舞伎座戸口より 車にて宿屋へ帰りの事。

 団十郎の道成寺、初てあの様な立派な芸を見申候。初は 地赤に桜の散らし振袖にて踊り、なかばに赤い着物はぬき下より萌黄のを着、桜にかすみにてきれい也。又夫を上計り腰ぬきにして下には白地の桜と雲也。叉ぼうずが色々とする内に又一寸内に入り直(スグ)と着がえして出る、又其時は紫、又したのは地赤に桜の金色、ぴかぴかぴかきれい也おそめ様もお安悦と見え申候。飯は べんとすし、ちんと酒少々 さしみ、お染様は下戸様にて酒はおのみ成されず候。四人にて 四円五十銭にて、これには感心の事。

 夜入 ほどなくかえり、内にて夜食たべ候、十時過にやすみ候。

 

 「のさず」‥‥ 鹿児島弁で、「のさん」といいますが、「(どうにもならず)まいった!」といった意味で使います。

例)「今日は洗濯物を干したのに、桜島の灰(へ)が降って来て、ほんのこて(本当に)のさんね〜」

「鹿児島弁辞典」石野宣昭(2012年・南方新社)を見ると、

「のさん ‥‥ ①我慢できない ②困る ③難儀だ」とあります。

 

 前回の前半から一転、これまでのお天気を振り返っているので、歌舞伎座見物の話は終わったのかと思ったら、

帰りにも雨に降られて難儀したので「思えばこの旅のお天気は‥‥」と思わず回想してみたところなのですね。

最初に読んだ時には、団十郎の道成寺が余りにも煌びやかで素晴らしかったので、この日の日記にも二度にわたって書き綴ったのだろう、と思っていました。

それにしても余程、九代目市川団十郎の演技や歌舞伎座の舞台・衣装などが素晴らしく、印象に残ったのでしょうね

 

 この演目「道成寺」の内容は↓こちらのサイトをご覧ください。

   「道成寺」‥‥安珍と清姫の物語  

こちらでは↓錦絵も見られます。

 深読み役者絵展より「娘道成寺」

 

 これまで知らなかったのですが、

道成寺は和歌山県最古の寺で、大宝元年(701年)創建なのですね

道成寺のHPより↓

「道成寺について」

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「5月3日 【前編】 昨日の話で大笑い、歌舞伎座芝居見物も♪」

2020-05-03 16:05:39 | 『都見物日記』

 この日の日記は分量が多いので、2回に分けて紹介しますね

 

『都見物日記』(四)‥‥ ③【前編】

 五・三  雨降り、五時過に今日は起て皆々 顔、髪あらい、茶のみ、七時過に飯たべ、今日はお染様と昨日芝居見物に行くお約束申上置候て、今朝は早くしまいお待ち居り候。

 夜前(ヤゼン)より 轟殿が私に大笑い申され候  お染様に御あいさつの内に 「ござり申(も)す」と私がいうたと申されて、今朝迄も 其ようなことは私は言(ゆ)わんと申せど、轟殿が あの言葉にはあぶね事笑いいだした と申大笑い也。 昨日はおそめ様のお話にて候、お筆どのよりお文が三十日のひ参りましたけれど、私はまだ御返事も出しません とお話しの事也 精一様はこれはこれは御心あい御やさしい方 とお話しにて、私もうれしく存候也(精一氏は筆者の御子息)

 今日は八時過より三人とお染様お供いたし、歌舞伎座芝居にゆき、実に実に何(ナン)とも口には語り出しは誠になりませぬ也。 市川団十郎の事 談に聞きおり、手のかれたる事、又身ぶり感心也。舞台又は家の造り、道具だて、大幕奇麗の事何ともかともきれい〳〵〳〵。

 外題(ゲダイ)の事 相馬平氏二代物語  → ※「相馬平氏二代譚(そうまへいしにだいばなし)」

  跡に道成寺と申外題にて候

一幕より二幕まで団十郎 出、夫より団十郎 あとまく一つと中までいたし、道成寺は実に只々感心々々々々。

 

※ 画像↓は2002年発行「旅王国⑫ 東京」(昭文社 エリアマップ)より

 

 

 偶然にも最近、最初に「歌舞伎座」というものが出来たのは明治22年11月であったとあるテレビ番組を見ていて知りました 出来て半年ほどの真新しい歌舞伎座は本当に素晴らしかった事でしょうね

 歌舞伎座HPより → 「歌舞伎座の変遷」

 この時は九代目市川團十郎 

検索したところ「立命館大学ARC」の「深読み役者絵展」というページがヒット、

白拍子を演じたのは明治23年(1890年)だけだったとありました! だとしたら、貴重な舞台を見たことになりますね

 ↓トップ&下の画像は5月19日、20日に入手した書籍から📚'20.6.10 追加掲載したものですが、

ここにも書かれていました

「相馬平氏二代譚」についても「近松門左衛門の『関八州繋馬』を福地桜痴が書き直した」「俗に『仲光』という活歴劇」と。

  

 お染様にお文を送ったのは、イサさんの妹で、曽祖父・轟からすると次姉の筆さん。筆さんについては以前書きましたのでお読みいただければと思います。

関連記事:「大正14年まで生きた筆(フデ)さん」など  

 またしても、お国言葉の鹿児島弁を口にしたとか言っていないとか、姉弟の押し問答(爆!

 

コメント (1)
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