☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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「堂の前(どのまえ)」、、、とは?!

2020-05-26 23:56:30 | 『都見物日記』番外編

 いつもお読みいただきありがとうございます ( 画像を複数枚、追加しました〜)

昨日は『都見物日記』のアップも18日から20日の分まで進み、だいぶ捗りました

 

ところで、  5月15日の『都見物日記』「鹿児島の上町 堂の前 煙草屋の…云々」と書かれていましたが、

本日別件で、以前撮っていた画像を探していたら、2年前の3月に撮った写真(↑トップ画像)の

「鹿児島城下絵図」に「堂の前」の文字を発見 

通りの名前として載っていることに気付きました 

 

福昌寺(現、玉龍高・玉龍中)や大乗院(現、清水中学校)があった地域に「堂の前通り」という表記があったので、父にも話してみたら、場所が何処かということこそ知りませんでしたが、地元の人たちが「どのまえ」と言うのを聞いたことはあったと教えてくれました。

「坊中馬場(ぼじゅんばあ)」と「清水馬場(しみっばあ)」の交わる所「仁王堂水(におうどうみず)」があります。

   

 

 今日雨の中撮ってきた写真です(クリックすると大きい画像になります)。「仁王堂水」は清水小学校の向かいにあります

    

で、肝心の「堂の前(どのまえ)通り」は稲荷川を挟んで、一つ橋を渡った西側の通りで、大龍小学校(大竜寺跡)を左手に見て北上すると皷川町へ、更には名越左源太の別邸があった韃靼冬(たんたど)へと登る道に繋がります。 

最近の地図には「堂の前通り」の表記がなくわかりませんでした。

 

 今日夕方、思い立って現地に行って探してみたところでも、付近に「堂の前」の表記はありませんでした。

画像↓の左端に「玉龍高校前」のバス停が写っていますが、「堂の前通り」は、その先から地図の「皷川町」表記の辺りの短い距離のようです。右折表示の方へ行くと「一つ橋」から「仁王堂の水」の清水馬場です。

(この病院敷地の一角、実は父の叔父(=「池之上のおじさん」)家族が住んでいた場所なんですよね。小さい頃は時々家族で尋ねていたので、懐かしい場所です

 

 上町の資料を調べると載っているのかも知れませんが、現・玉龍高校・中学校(=福昌寺跡)に続く通りなので、おそらく「福昌寺の御堂の前の通り」ということからそう呼ばれているのだと思います。これについては後日確認してみたいと思います。

 

 せっかく行くのだからと、以前からFBFさんたちが画像を上げていた「鶴嶺高等女学校 校跡碑」と「良子女王殿下御台臨記念碑」も見たい!と、先日検索して見つけた「クマタツ1847」さんのブログ記事「鹿児島市 上町歴史散歩(その五)(12)」で下調べの上、無事に見つけました!

通り一つ北へ上がった「本立寺馬場」という通りにありました。それについてはまた後日アップします 

 

では。

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「5月26日 神戸最後の夜に・・・」

2020-05-26 18:06:27 | 『都見物日記』

 神戸・薩摩屋、最後の夜です。衝撃のアクシデントが、あったとか、、なかったとか、、いや、あったようです

 

『都見物日記』(八)‥‥ ④ (※印は、ゆき註釈)

 五・二六  今日雨。六時おき茶飲み 夫(※ソレ)より程なく 青山と申すお方はなしにお出、又 鈴木信弥さんと申お方 お出にて暫らくお談(※ハナシ)、九時過にお帰りの事。 程なく三原母様、西村時彦様とお出、今日船も出帆之はずにて 此方へお越しにてゆるゆると成され、皆々十二時過にはめし、牛(ギュウ)など向こうさん買入 ちんと酒などお分かれに飲かた(※飲み方=宴、酒飲み)有之候。二時には西村さんもお帰り之事。

 三時過に楠公社辺に又歩行致し、少し雨降出し せわせわ敷候に付、早目にかえり候得ば 上(カミ)の納屋の上の田尻様もお出の事。 夕飯は此宿にて四人ともたべ、ゆるゆるといたし居り候処、鈴木さんお出にて、それより酒、牛など差出し、芸者の御馳走など有ておもしろく、ゆるゆるゆると致され十一時前お帰之事

 轟どの酔候て小便を二階のすみにて致され、小便所と思いてのことならん。轟どの格別のしくじりもなかりしに 終にしくじりの終(シマ)いを首尾いたされ、おかしおかし、皆大笑。十二時いね候。

 

 「青山と申すお方」は他の日には出て来ないと思いますが、どなたの関係かはわかりません。

 「鈴木信弥」という方は、 往路の4月21日の日記「名越氏の知人」と書かれています。神戸最後のこの日は午前中と夜にも宿に来られていますね。また、明日27日の日記では、イサさん達が神戸を離れる時にもお暇乞いにおいでになります。

「名越氏の知人」ということですので、よほど縁の深い方なのかもしれません。ただ、ここでいう「名越氏」が誰のことなのかまではわかりませんが、時成兄さんか、その家系の方かもしれませんね。

 「牛(ギュウ)」というのは「神戸ビーフ」でしょうか?「向こうさん買入」とは西村時彦様がお昼にお別れのお酒と共にご馳走下さったということ?

「夕飯は此宿にて四人ともたべ、」とあるのは西村時彦様が帰られて、三原氏母様と御三方との四人ですね。

 あと、よくわからないのが「上(カミ)の納屋の上の田尻様」です。「納屋(なや)」というと、鹿児島市街地にある地名の「納屋通り」というのがあります。

「田尻様」で思い浮かんだのは、「田尻務」様。桂久武の兄で、霧島神宮の初代宮司になられた方で、その後を左源太の妻・タネの実弟が明治7年から2代目宮司になっています。・・・が、「上の納屋の上の‥‥」というのだから、違うでしょうね?? どちらの田尻様でしょう??

 轟の「しくじり」は、ひ孫としては恥ずかしいので、小文字にしました (大笑いされてるし〜

 

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