文政十一年七月二日(1828年8月20日)。月末から昨日にかけて、南東の風が昼も夜も雨を交えて吹き荒れていたが、今朝はよく晴れて、名残の南西の風が吹いていると記しているので、台風が通過したものと思われる。雲の流れはまだ早かったため、嘉陵は雨が降るかもしれないと思い、爪占いをしたところ、雨は降らないようなので、草鞋を履き笠を付けて午前9時に三番町の家を出ている。行き先は中延の八幡宮である。
平川天神(平河天神。千代田区平河町1)の前から虎ノ門に出て、金毘羅権現(金刀比羅神社。港区虎ノ門2)の前を過ぎ、西の窪(港区虎ノ門5)から赤羽橋(港区芝公園4)に至り、聖坂(港区三田4)を上って白金台(高輪台。港区高輪2)を行く。二本榎(港区高輪3)を過ぎ、折れ曲がった道を西に行き、猿町(港区高輪3)の坂を下って、雉子の宮(雉子神社。品川区東五反田1)を参拝する。嘉陵は何の神を祀っているか分からないと書いているが、家光が鷹狩をした際に白い雉が境内に入ったのを見て、雉子宮と名付けたという社で、もとは荏原宮と称し祭神は天手力雄命であった。嘉陵は、岡の上から西南に青田が広がるのが見えたとし、また、岡の下の高野大師堂の向こうに、別荘らしい二階家があったと記している。高野大師の堂というと、二本榎の高野寺(高野山東京別院。港区高輪3)が思いつくが、場所的には少々離れている。嘉陵の略図で、雉子の宮から分かれる道の先に書かれた弘法大師堂の方が該当しそうに思える。江戸名所図会で、雉子宮の岡の下には、確かに、宝塔寺(品川区東五反田1)の大師堂が描かれている。ただ、祀られているのは元三大師であって、弘法大師ではない。嘉陵は宝塔寺を参詣していないようなので、取り違えたのかも知れない。なお、元三大師堂は現在も雉子宮の下に位置している。このあと嘉陵は下大崎に出るが、途中、山沿いの高所に名主の家があったと記している。そのさき、目黒碑文谷と品川の分かれ道を過ぎて、馬道を南西に行き、用水路(目黒川)にかかる土道橋を渡る。この橋までは舟で上がってくると記しているが、現在の大崎橋(品川区西五反田1)付近にあった橋と思われる。
さらに進んで、制札場がある戸越を通る。ここまでは中原街道をたどったと思われる。現中原街道の中原口交差点の少し先から、旧中原街道が分かれている。ホテルルートイン五反田の横を上がる道が旧街道である。この道を行くと平塚橋の手前で現中原街道に合流する。平塚橋は品川用水にかかっていた橋だが、既に橋は存在せず、交差点の名でそれと知るのみである。嘉陵は、石橋のある場所で中原街道から分かれて左に折れると記しているが、石橋とは平塚橋のことではなかろうか。道はその少し先で品川への道と分かれ、中延村の道(仲通り)を通る。道なりに進めば、中延八幡宮(旗ケ岡八幡神社。写真。品川区旗の台3)に出る。嘉陵によると、八幡宮の拝殿と本社はまだ新しく欅造りであったという。八幡宮を参拝したあと、嘉陵は別当寺の法蓮寺に行き、門前の茶店で休息して、持参した弁当を食べている。
平川天神(平河天神。千代田区平河町1)の前から虎ノ門に出て、金毘羅権現(金刀比羅神社。港区虎ノ門2)の前を過ぎ、西の窪(港区虎ノ門5)から赤羽橋(港区芝公園4)に至り、聖坂(港区三田4)を上って白金台(高輪台。港区高輪2)を行く。二本榎(港区高輪3)を過ぎ、折れ曲がった道を西に行き、猿町(港区高輪3)の坂を下って、雉子の宮(雉子神社。品川区東五反田1)を参拝する。嘉陵は何の神を祀っているか分からないと書いているが、家光が鷹狩をした際に白い雉が境内に入ったのを見て、雉子宮と名付けたという社で、もとは荏原宮と称し祭神は天手力雄命であった。嘉陵は、岡の上から西南に青田が広がるのが見えたとし、また、岡の下の高野大師堂の向こうに、別荘らしい二階家があったと記している。高野大師の堂というと、二本榎の高野寺(高野山東京別院。港区高輪3)が思いつくが、場所的には少々離れている。嘉陵の略図で、雉子の宮から分かれる道の先に書かれた弘法大師堂の方が該当しそうに思える。江戸名所図会で、雉子宮の岡の下には、確かに、宝塔寺(品川区東五反田1)の大師堂が描かれている。ただ、祀られているのは元三大師であって、弘法大師ではない。嘉陵は宝塔寺を参詣していないようなので、取り違えたのかも知れない。なお、元三大師堂は現在も雉子宮の下に位置している。このあと嘉陵は下大崎に出るが、途中、山沿いの高所に名主の家があったと記している。そのさき、目黒碑文谷と品川の分かれ道を過ぎて、馬道を南西に行き、用水路(目黒川)にかかる土道橋を渡る。この橋までは舟で上がってくると記しているが、現在の大崎橋(品川区西五反田1)付近にあった橋と思われる。
さらに進んで、制札場がある戸越を通る。ここまでは中原街道をたどったと思われる。現中原街道の中原口交差点の少し先から、旧中原街道が分かれている。ホテルルートイン五反田の横を上がる道が旧街道である。この道を行くと平塚橋の手前で現中原街道に合流する。平塚橋は品川用水にかかっていた橋だが、既に橋は存在せず、交差点の名でそれと知るのみである。嘉陵は、石橋のある場所で中原街道から分かれて左に折れると記しているが、石橋とは平塚橋のことではなかろうか。道はその少し先で品川への道と分かれ、中延村の道(仲通り)を通る。道なりに進めば、中延八幡宮(旗ケ岡八幡神社。写真。品川区旗の台3)に出る。嘉陵によると、八幡宮の拝殿と本社はまだ新しく欅造りであったという。八幡宮を参拝したあと、嘉陵は別当寺の法蓮寺に行き、門前の茶店で休息して、持参した弁当を食べている。