延命寺から、もと来た道を700mほど戻り、沼田の渡しを渡る。川に沿って少し行くと、六阿弥陀一番西福寺(写真。北区豊島2)に出る。次の寺へは田の畦道を行くが、道は曲がりくねっていて、方向も分からなくなるほどであった。山の方に向かっていくと、坂があり、上がると平塚明神の社(平塚神社。北区上中里1)に出た。王子道(本郷通り)を横切って、六阿弥陀三番無量寺(北区西ケ原1)の裏門から中に入った。
無量寺から西行庵(廃寺)を通り、六阿弥陀四番与楽寺(北区田端1)に行く。それから東南に行き、一条の道を進んで、三崎の大通り(さんさき坂)を東に向かい、谷中門(台東区上野桜木2)から寛永寺に入り、黒門(台東区上野公園)から出て、五番長福寺(常楽院。移転)に行く。六阿弥陀最後の寺である。嘉陵によると、六阿弥陀の道筋は、隅田川の白髭社の辺から千住までの間の風景以外に見所はなく、千住から先の川沿いは木や茅が茂って眺めはなかったという。
嘉陵は、文政年間に出版された一枚物の地図「六阿弥陀独案内」を持っていたようで、その中に記載されている距離を、紀行文の中に引用している。すなわち、日本橋から一里十五丁(5.6km)で亀戸の常光寺。亀戸から一里半(5.9km)で千住。千住から本木性翁寺を経て一里半(5.9km)で沼田の延命寺。沼田から十五丁(1.6km)で元木の西福寺。元木から二十五丁(2.7km)で西ケ原の無量寺。西ケ原から三十丁(3.3km)で田端の与楽寺。田端から二十五丁(2.7km)で下谷の長福寺。下谷から三十一丁(3.4km)で日本橋。合計で七里三十三丁(31.1km)となる。
六阿弥陀の縁起は、「むかし、足立の庄司が、身を投げた娘のことを悲しんで、行基に依頼して、霊木をもって六体の阿弥陀如来像を造ったが、これが六阿弥陀であり、余った木の根で造ったのが性翁寺の木余りの阿弥陀如来像である」となっている。嘉陵は性翁寺で縁起を入手しているが、他の寺には縁起がなかったと言い、縁起の内容については、取るに足らず、信用すべきにはあらずと記している。なお、狂歌師の蜀山人が文化三年(1806)に巡拝した時には各寺に縁起があったが、登場人物は寺により違いがあったという。
嘉陵はまた、六阿弥陀の仏像についても、行基の作ではなく凡作であるとしている。嘉陵によれば、千住四家の平蔵(文化九年に鷲明神を参詣した時に立ち寄っている)が、庵に安置していた地蔵尊は、行基の作と言い伝えられており、浅草観音堂の荒痛の文殊仏(痛いと叫んだという伝承あり。焼失)と同じ造りで、凡作ではなかったと記している。なお、性翁寺の木像阿弥陀如来坐像(木余りの如来)は、現在、都指定の有形文化財になっている。
無量寺から西行庵(廃寺)を通り、六阿弥陀四番与楽寺(北区田端1)に行く。それから東南に行き、一条の道を進んで、三崎の大通り(さんさき坂)を東に向かい、谷中門(台東区上野桜木2)から寛永寺に入り、黒門(台東区上野公園)から出て、五番長福寺(常楽院。移転)に行く。六阿弥陀最後の寺である。嘉陵によると、六阿弥陀の道筋は、隅田川の白髭社の辺から千住までの間の風景以外に見所はなく、千住から先の川沿いは木や茅が茂って眺めはなかったという。
嘉陵は、文政年間に出版された一枚物の地図「六阿弥陀独案内」を持っていたようで、その中に記載されている距離を、紀行文の中に引用している。すなわち、日本橋から一里十五丁(5.6km)で亀戸の常光寺。亀戸から一里半(5.9km)で千住。千住から本木性翁寺を経て一里半(5.9km)で沼田の延命寺。沼田から十五丁(1.6km)で元木の西福寺。元木から二十五丁(2.7km)で西ケ原の無量寺。西ケ原から三十丁(3.3km)で田端の与楽寺。田端から二十五丁(2.7km)で下谷の長福寺。下谷から三十一丁(3.4km)で日本橋。合計で七里三十三丁(31.1km)となる。
六阿弥陀の縁起は、「むかし、足立の庄司が、身を投げた娘のことを悲しんで、行基に依頼して、霊木をもって六体の阿弥陀如来像を造ったが、これが六阿弥陀であり、余った木の根で造ったのが性翁寺の木余りの阿弥陀如来像である」となっている。嘉陵は性翁寺で縁起を入手しているが、他の寺には縁起がなかったと言い、縁起の内容については、取るに足らず、信用すべきにはあらずと記している。なお、狂歌師の蜀山人が文化三年(1806)に巡拝した時には各寺に縁起があったが、登場人物は寺により違いがあったという。
嘉陵はまた、六阿弥陀の仏像についても、行基の作ではなく凡作であるとしている。嘉陵によれば、千住四家の平蔵(文化九年に鷲明神を参詣した時に立ち寄っている)が、庵に安置していた地蔵尊は、行基の作と言い伝えられており、浅草観音堂の荒痛の文殊仏(痛いと叫んだという伝承あり。焼失)と同じ造りで、凡作ではなかったと記している。なお、性翁寺の木像阿弥陀如来坐像(木余りの如来)は、現在、都指定の有形文化財になっている。