文政十一年十月(1828年11~12月)。孫娘が生まれる前に安産の符をいただいておいたところ無事に出産したので、十月のある日、嘉陵はその符を懐に新曾村の妙顕寺の参詣に出掛けている。妙顕寺は安産の妙符を出すことで知られていたが、嘉陵の元同僚の弟が住む寺でもあった。新曾村へ行くには中山道を利用することになるが、嘉陵は三番町に住んでいたので、初めは現在の春日通りの道筋を通ったと思われる。この道は、波切不動尊(現在は本伝寺内。文京区大塚4)の前を通るが、ここで嘉陵は持参した磁針を取り出し、道が北に向かっていることを確かめている。その先で、道は北北東から北に向かい、橋を渡る。谷端川(現在は暗渠)に架かる藤橋(大塚駅の近くにあった橋)であろう。この道を行き、林を抜けると、庚申塚(現在は猿田彦大神内の祠に置かれている。豊島区西巣鴨2)に出るが、ここからは中山道になる。
中山道を北に向かい、滝の川三軒屋を過ぎて、板橋宿に入る。宿場の左手に乗蓮寺(現在は板橋区赤塚5に移転)があるが、先を急ぐため通り過ぎている。中山道をさらに進み、小豆沢、蓮沼を過ぎ、志村に出て、隠岐殿坂(清水坂)を下る。右手には清水薬師(現在は跡地が薬師の泉庭園となる)があるが、そのまま通り過ぎる。さらに行くと丸池(板橋区東坂下にあった池)があり、茅を刈る原がある。この辺りからは西に富士、北西に秩父、武甲山が見渡せる。嘉陵は、武甲山の謂れについて、発禁となった斎藤鶴磯の「武蔵野話」に記載された、武光の庄ゆえ武光山と称したという説を取り上げている(武甲山は、古くは知々夫ケ嶽と称したが、後に武光山となり、近世以降は武甲山と称した)。また、享保の頃の柔術家、武光平太左衛門は武光の庄の出身ではないかと記している。
戸田の渡しには二艘の舟があり、一艘に馬が五、六匹、人三十人ほど乗せるということであった。ここを渡って堤を越え、子安釈迦仏の標石がある所から西に折れて、妙顕寺(戸田市新曾。写真)に行く。参拝を終えて、安産の符を納めてから外に出る。既に午後2時である。帰る途中で観音寺(戸田市新曾)を参詣し、古碑を見て回るが、じっくり調べる時間は無い。
戸田の渡しを渡って志村に着いたのは午後4時。また来られるかどうか分からないため、熊野権現(板橋区志村2)に立ち寄る。ここへは文政元年(1818)にも訪れているが、当時に比べて木が茂っていて、眺めはよくなかったと記す。また、一夜塚について地元の人に尋ねると、権現の鳥居の真向かいが一夜塚で、この城を攻める時に一夜で塚を築き、城に大砲を打ち込んだ跡ということだった。嘉陵は、この点については疑問を抱いていたようである。また、この山の東に最近出来た庵があり、入口に古碑があったと記している。古碑は板橋の乗蓮寺にもあったが、既に日も暮れていたので、今回は見ないで通り過ぎている。
(注)この紀行文には、正靖(村尾嘉稜)、時に六十七歳とある。嘉陵の生まれを宝暦十年とすれば、文政十年には数えで六十九歳の筈で、食い違いがある。ここでは、文政十年、六十九歳を正しいとした。
中山道を北に向かい、滝の川三軒屋を過ぎて、板橋宿に入る。宿場の左手に乗蓮寺(現在は板橋区赤塚5に移転)があるが、先を急ぐため通り過ぎている。中山道をさらに進み、小豆沢、蓮沼を過ぎ、志村に出て、隠岐殿坂(清水坂)を下る。右手には清水薬師(現在は跡地が薬師の泉庭園となる)があるが、そのまま通り過ぎる。さらに行くと丸池(板橋区東坂下にあった池)があり、茅を刈る原がある。この辺りからは西に富士、北西に秩父、武甲山が見渡せる。嘉陵は、武甲山の謂れについて、発禁となった斎藤鶴磯の「武蔵野話」に記載された、武光の庄ゆえ武光山と称したという説を取り上げている(武甲山は、古くは知々夫ケ嶽と称したが、後に武光山となり、近世以降は武甲山と称した)。また、享保の頃の柔術家、武光平太左衛門は武光の庄の出身ではないかと記している。
戸田の渡しには二艘の舟があり、一艘に馬が五、六匹、人三十人ほど乗せるということであった。ここを渡って堤を越え、子安釈迦仏の標石がある所から西に折れて、妙顕寺(戸田市新曾。写真)に行く。参拝を終えて、安産の符を納めてから外に出る。既に午後2時である。帰る途中で観音寺(戸田市新曾)を参詣し、古碑を見て回るが、じっくり調べる時間は無い。
戸田の渡しを渡って志村に着いたのは午後4時。また来られるかどうか分からないため、熊野権現(板橋区志村2)に立ち寄る。ここへは文政元年(1818)にも訪れているが、当時に比べて木が茂っていて、眺めはよくなかったと記す。また、一夜塚について地元の人に尋ねると、権現の鳥居の真向かいが一夜塚で、この城を攻める時に一夜で塚を築き、城に大砲を打ち込んだ跡ということだった。嘉陵は、この点については疑問を抱いていたようである。また、この山の東に最近出来た庵があり、入口に古碑があったと記している。古碑は板橋の乗蓮寺にもあったが、既に日も暮れていたので、今回は見ないで通り過ぎている。
(注)この紀行文には、正靖(村尾嘉稜)、時に六十七歳とある。嘉陵の生まれを宝暦十年とすれば、文政十年には数えで六十九歳の筈で、食い違いがある。ここでは、文政十年、六十九歳を正しいとした。