文政十三年五月十一日(1830年7月1日)。71歳になった嘉陵は、この日が再遊となる六阿弥陀巡拝に出掛けている。六阿弥陀詣は江戸で人気のあった行事で、春秋の彼岸には多くの人が歩いたといわれている。ただ、朝早く出ても、回り終える頃には日が暮れるほど距離はあった。江戸名所図会「六阿弥陀詣」を見ると、参詣客は老若男女、中には赤ん坊を負ぶった女性も見えるので、全て回るのは大変だったと思われる。六阿弥陀とは、一般に、一番西福寺、二番延命寺、三番無量寺、四番与楽寺、五番長福寺、六番常光寺、それに番外として性翁寺を巡るものであるが、この順番に巡拝する必要はなかったようで、嘉陵も、六番の寺から始めて五番で終わるコースを歩いている。
嘉陵が歩いたコースの起点は日本橋になっている。日本橋を出て、両国橋を渡り、竪川沿いに進んで、天神川(横十間川)沿いに行き、天神橋を渡る。天満宮(亀戸天神。江東区亀戸3)の裏手から、北十間川に沿って東に行き、香取大明神の社(亀戸香取神社。江東区亀戸3)を参詣する。ここから東に行けば六番・常光寺(写真。江東区亀戸4)である。嘉陵によると、阿弥陀詣の六番寺は、本来、正福寺(墨田区墨田2)であったが、常光寺に銭一貫八百文の質物として入れた阿弥陀像を戻すことが出来ず、常光寺が六番寺になったということである。また、常光寺の門内に竜が伏せるような形の、杉の名木があったと記す。
そのあと、北十間川を渡り、東の森(吾嬬神社。墨田区立花1)を参詣し、白髭社(墨田区東向島3)の前の隅田川土手に出て、梅若の渡しを渡り、真崎稲荷(荒川区南千住3)から小塚原刑罪所(荒川区南千住5)の上に出て、千住の大橋を渡って宿場の内を進み、西に曲がって堤の上を少し行き、右へ行って西新井の弘法大師(総持寺。足立区西新井1)に行く。門前に酒肴を売る店が53軒あり、また、堂の工事はまだ三分の二ほどで、瓦も葺いておらず、戸も無く、仏像を安置するのは来年三月という事であったと、嘉陵は記している。寛政年間に描かれた江戸名所図会「西新井大師堂」に見られるように、もとの大師堂は茅葺であったが、第三十二世秀圓大僧都の時に、瓦しころ葺きの本堂、書院、方丈、客殿、庫裏を備えた大伽藍の造営が計画された。しかし、秀圓大僧都の存命中には実現には至らず、嘉陵が訪れた文政十三年(天保元年)になって、ようやく工事が始まったという事である。なお、後に描かれた広重の江戸名所図会「西新井」では既に瓦葺になっている。
ここから西に行き、また東に向かって、ぐるぐる回りこむようにして、木余りの性翁寺(足立区扇2)に出る。境内には、六阿弥陀の発端となった足立姫の墓があり、菩提樹を植えていた。嘉陵は、性翁寺の開基は後北条の家臣阿出川某で、子孫は小菅の御蔵番であると記しているが、確信はなかったようである。なお、寺伝では、開基は足立の庄司で、阿出川貞次を中興の開基としている。このあと、西南の荒川の堤に出て西北に行き、堤を下って沼田の六阿弥陀二番延命寺(恵明寺。足立区江北2)を参詣している。
嘉陵が歩いたコースの起点は日本橋になっている。日本橋を出て、両国橋を渡り、竪川沿いに進んで、天神川(横十間川)沿いに行き、天神橋を渡る。天満宮(亀戸天神。江東区亀戸3)の裏手から、北十間川に沿って東に行き、香取大明神の社(亀戸香取神社。江東区亀戸3)を参詣する。ここから東に行けば六番・常光寺(写真。江東区亀戸4)である。嘉陵によると、阿弥陀詣の六番寺は、本来、正福寺(墨田区墨田2)であったが、常光寺に銭一貫八百文の質物として入れた阿弥陀像を戻すことが出来ず、常光寺が六番寺になったということである。また、常光寺の門内に竜が伏せるような形の、杉の名木があったと記す。
そのあと、北十間川を渡り、東の森(吾嬬神社。墨田区立花1)を参詣し、白髭社(墨田区東向島3)の前の隅田川土手に出て、梅若の渡しを渡り、真崎稲荷(荒川区南千住3)から小塚原刑罪所(荒川区南千住5)の上に出て、千住の大橋を渡って宿場の内を進み、西に曲がって堤の上を少し行き、右へ行って西新井の弘法大師(総持寺。足立区西新井1)に行く。門前に酒肴を売る店が53軒あり、また、堂の工事はまだ三分の二ほどで、瓦も葺いておらず、戸も無く、仏像を安置するのは来年三月という事であったと、嘉陵は記している。寛政年間に描かれた江戸名所図会「西新井大師堂」に見られるように、もとの大師堂は茅葺であったが、第三十二世秀圓大僧都の時に、瓦しころ葺きの本堂、書院、方丈、客殿、庫裏を備えた大伽藍の造営が計画された。しかし、秀圓大僧都の存命中には実現には至らず、嘉陵が訪れた文政十三年(天保元年)になって、ようやく工事が始まったという事である。なお、後に描かれた広重の江戸名所図会「西新井」では既に瓦葺になっている。
ここから西に行き、また東に向かって、ぐるぐる回りこむようにして、木余りの性翁寺(足立区扇2)に出る。境内には、六阿弥陀の発端となった足立姫の墓があり、菩提樹を植えていた。嘉陵は、性翁寺の開基は後北条の家臣阿出川某で、子孫は小菅の御蔵番であると記しているが、確信はなかったようである。なお、寺伝では、開基は足立の庄司で、阿出川貞次を中興の開基としている。このあと、西南の荒川の堤に出て西北に行き、堤を下って沼田の六阿弥陀二番延命寺(恵明寺。足立区江北2)を参詣している。