文政十年閏六月三日(1827年7月26日)、嘉陵は若宮村八幡宮(現在は隅田川神社に合祀)を参詣したようだが、具体的な記述はない。正福寺は文化十三年にも訪れているので、今回は再遊ということになる。隅田村旗揚八幡宮については、文化三年六月に渡辺周助から聞いた、次のような話を記すにとどめており、その跡地と思われる場所を訪ねることもしていない。
「隅田村の農家源右衛門は、昔から織田家と縁があった者だが、その屋敷の稲荷のそばにあった榎の大木が枯れたので、掘り返してみたところ、30cmほどの長さの石が出てきた。数日後に洗ってみたところ、表には『文治二年日月清明 旗揚八幡宮 征夷大将軍源頼朝』と彫付けてあり、裏には『金森判官元茂 安西兵衛光造』と彫られていた。そこで、中川飛騨守に訴えたのだが、いまだに音沙汰が無い」
この紀行文には、七十二翁 正やす(村尾嘉陵)として、次の一首が添えられている。
「幼き昔思えば咲く花を背に負れて枝を手折りし」
文政十年の嘉陵の年齢は数えで68歳であるので、年齢に食い違いがある。72歳になった時に追記したものかも知れない。
「隅田村の農家源右衛門は、昔から織田家と縁があった者だが、その屋敷の稲荷のそばにあった榎の大木が枯れたので、掘り返してみたところ、30cmほどの長さの石が出てきた。数日後に洗ってみたところ、表には『文治二年日月清明 旗揚八幡宮 征夷大将軍源頼朝』と彫付けてあり、裏には『金森判官元茂 安西兵衛光造』と彫られていた。そこで、中川飛騨守に訴えたのだが、いまだに音沙汰が無い」
この紀行文には、七十二翁 正やす(村尾嘉陵)として、次の一首が添えられている。
「幼き昔思えば咲く花を背に負れて枝を手折りし」
文政十年の嘉陵の年齢は数えで68歳であるので、年齢に食い違いがある。72歳になった時に追記したものかも知れない。