大宮八幡の大門を出て東に行くこと6km余、上り下りが2か所、途中に庵と社があった。北に曲がれば幡ヶ谷で、さらに北に曲がって幡ケ谷不動(荘巌寺。渋谷区本町2)に出た、と嘉陵は記している。大宮八幡から東に行くと、神田川を渡り、宝福寺と多田神社(中野区南台3)のそばを通って、低地に下って南に折れると幡ヶ谷で、ここから東に行けば幡ヶ谷不動(荘厳寺。渋谷区本町2)に出る。嘉陵の記述と略図は、これとは異なっているが、単なる勘違いだろうか、それとも、東の積りで南に行き、甲州街道に出て北の積りで東に行き、幡ヶ谷から北の積りで東に行き幡ヶ谷不動に出たのだろうか。
幡ヶ谷不動を参詣したあと、少し行って甲州街道の新町(角筈新町。新宿区西新宿)を通り、浄土宗の寺の先にある天満宮(甲州街道沿いの箒銀杏の下に祠あり。渋谷区代々木3)を参拝する。その傍らの小道を行き、代々木への道を分け、制札の立つ四辻(参宮橋付近)を左に行き、井伊屋敷(明治神宮付近)の垣に沿って進み、坂を下って畑の中道を行くと千駄ヶ谷道(渋谷区代々木2、1)に出る。ここを南に少し行き、四番目の千駄ヶ谷八幡宮(鳩森八幡神社。写真。渋谷区千駄ヶ谷1)を参詣する。この八幡宮は最近焼失したばかりだったが、近く再建を始める予定なのか仮屋根を作っていた。社殿の近くには富士浅間の塚があったが、このほかに見所はなかったと記す。
千駄ヶ谷八幡の東の門を出て、坂を下り左手の如意輪観音堂のある聖輪寺(渋谷区千駄ヶ谷1)を参拝する。その続きの高松院と立法寺を過ぎ、青山の熊野社(渋谷区神宮前2)の横に出て、青山通り百人町を通り、伊勢野(渋谷区東1)を左に渋谷に至り、五番目の渋谷八幡宮(金王八幡神社。渋谷区渋谷3)を参詣する。ここへは、文政二年と三年に訪れており、渋谷金王丸の旧跡について、嘉陵としての見解を述べてもいる。文政二年の時は伊勢野にも行っているが、今回は止めにして、ここより坂を下って渋谷川に出ている。
渋谷川沿いに進むと小橋があり、渡れば目黒不動尊へ行く道に出るが、ここは渡らず、次の橋も通り過ぎて、その次の橋を渡る(渋谷区恵比寿1付近)。渋谷川の南側を少し歩き、水車を眺め、橋(水車橋。現在の山下橋付近)を北側に渡り返す。この水車は、江戸名所図会にも取り上げられた広尾の水車と思われるが、その場所は現在の臨川児童遊園(現在は閉鎖中。渋谷区広尾5)の付近とされる。渋谷川には複数の水車が設けられていたが、そのうち、嘉陵の記述や略図に記されているのは、広尾と、金王下の橋の上流、浅野家の隠田屋敷の裏手と、その上流の四か所の水車である。さて、水車橋を渡ったあと、渋谷川沿いの広尾町を行くと、堀留橋(新豊沢橋付近)というやや大きな橋があった。この橋を南に行けば二子通り大山の街道、北へ行けば麻布市兵衛町(港区六本木3)に出るということであった。嘉陵は、この堀留橋について、新堀を掘削した際に設けられた橋ではないかと推量し、はじめは掘削工事の引受手がなかったという話を書いている。そのさき、嘉陵は道を間違えて、白金御殿跡(五代将軍綱吉の時に建てた麻布御殿の跡。港区南麻布4)に出てしまい、上の町(麻布本村町。港区南麻布1、3)から南に行き、相模橋(四の橋)に出ている。嘉陵は、笄川(天現寺付近で渋谷川に合流していたが、現在は暗渠)を渡ったときに、渋谷川と笄川を取り違えたのではなかろうか。
幡ヶ谷不動を参詣したあと、少し行って甲州街道の新町(角筈新町。新宿区西新宿)を通り、浄土宗の寺の先にある天満宮(甲州街道沿いの箒銀杏の下に祠あり。渋谷区代々木3)を参拝する。その傍らの小道を行き、代々木への道を分け、制札の立つ四辻(参宮橋付近)を左に行き、井伊屋敷(明治神宮付近)の垣に沿って進み、坂を下って畑の中道を行くと千駄ヶ谷道(渋谷区代々木2、1)に出る。ここを南に少し行き、四番目の千駄ヶ谷八幡宮(鳩森八幡神社。写真。渋谷区千駄ヶ谷1)を参詣する。この八幡宮は最近焼失したばかりだったが、近く再建を始める予定なのか仮屋根を作っていた。社殿の近くには富士浅間の塚があったが、このほかに見所はなかったと記す。
千駄ヶ谷八幡の東の門を出て、坂を下り左手の如意輪観音堂のある聖輪寺(渋谷区千駄ヶ谷1)を参拝する。その続きの高松院と立法寺を過ぎ、青山の熊野社(渋谷区神宮前2)の横に出て、青山通り百人町を通り、伊勢野(渋谷区東1)を左に渋谷に至り、五番目の渋谷八幡宮(金王八幡神社。渋谷区渋谷3)を参詣する。ここへは、文政二年と三年に訪れており、渋谷金王丸の旧跡について、嘉陵としての見解を述べてもいる。文政二年の時は伊勢野にも行っているが、今回は止めにして、ここより坂を下って渋谷川に出ている。
渋谷川沿いに進むと小橋があり、渡れば目黒不動尊へ行く道に出るが、ここは渡らず、次の橋も通り過ぎて、その次の橋を渡る(渋谷区恵比寿1付近)。渋谷川の南側を少し歩き、水車を眺め、橋(水車橋。現在の山下橋付近)を北側に渡り返す。この水車は、江戸名所図会にも取り上げられた広尾の水車と思われるが、その場所は現在の臨川児童遊園(現在は閉鎖中。渋谷区広尾5)の付近とされる。渋谷川には複数の水車が設けられていたが、そのうち、嘉陵の記述や略図に記されているのは、広尾と、金王下の橋の上流、浅野家の隠田屋敷の裏手と、その上流の四か所の水車である。さて、水車橋を渡ったあと、渋谷川沿いの広尾町を行くと、堀留橋(新豊沢橋付近)というやや大きな橋があった。この橋を南に行けば二子通り大山の街道、北へ行けば麻布市兵衛町(港区六本木3)に出るということであった。嘉陵は、この堀留橋について、新堀を掘削した際に設けられた橋ではないかと推量し、はじめは掘削工事の引受手がなかったという話を書いている。そのさき、嘉陵は道を間違えて、白金御殿跡(五代将軍綱吉の時に建てた麻布御殿の跡。港区南麻布4)に出てしまい、上の町(麻布本村町。港区南麻布1、3)から南に行き、相模橋(四の橋)に出ている。嘉陵は、笄川(天現寺付近で渋谷川に合流していたが、現在は暗渠)を渡ったときに、渋谷川と笄川を取り違えたのではなかろうか。