夢七雑録

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41.3 八幡もうでの記

2009-06-30 22:04:41 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 相模橋(四の橋)を渡り、中道寺を右に見て進み、三田の魚籃観音(港区三田4)を参拝してから、白銀台町(伊皿子台町。港区三田4)を横切り、伊皿子坂の長応寺(移転)の前を過ぎて泉岳寺(港区高輪2)に至り、四十七士の墓と堀部安兵衛の妻の墓に詣でる。次に、如来寺(移転)に詣でるが、この寺を造った木食且唱について、嘉陵は人から聞いた話を付記している。ここから牛町の大木戸(高輪大木戸。港区高輪2)を通り、六番目の田町の八幡宮(御田八幡神社。港区三田3)を参詣する。社は高い所にあり、海の眺めも素晴らしく、しばし暑さを忘れる心地であったという。

 ここを出て、札の辻から北に行き、赤羽橋(港区芝3)を渡って土器町(港区東麻布1、麻布台2)を上り、七番目の西の窪八幡宮(西久保八幡神社。写真。港区虎ノ門5)に詣でる。その時、芝増上寺の鐘の音が聞こえてきた。嘉陵は子供の頃、この近くに住んでいて、毎年八月十五日に、この社前に若者が集まってきて相撲をとっていたのを、何時も見ていたのである。あれから、もう、60年余りになる、と嘉陵は書いている。

 ここから、天徳寺(港区虎ノ門3)の前を過ぎ、昔住んでいた田村小路(港区西新橋2付近)の松平小十郎屋敷の近くを通り過ぎる。屋敷内には榎が二本あり、その根元には弁財天が鎮座していた。嘉陵は、そのまま通り過ぎる気になれず、塀の外から弁財天を伏し拝んでいる。この弁財天は、愛宕山の麓から海へかけて葦原になっていた頃から此処に鎮座していて、榎は葦原だった頃のまま、池は昔の縁で残していると、子供の頃に聞いたことがあり、その事を今も忘れてはいないと嘉陵は書いている。

 このあと、嘉陵は八番目の深川八幡宮(富岡八幡宮。江東区富岡1)を参詣している。着いたのは午後5時頃のことである。ある人は、八幡詣では渋谷と田町を除いて今戸と浅草御蔵前の石清水を入れると言っていたが、嘉陵は今戸と浅草を除く八か所の八幡宮を参詣したことになる。嘉陵は、一時に二里半歩くとして(時速5km)、八幡もうでの道のりを十五里(60km)と見積もっている。帰途、竹橋の御門を過ぎる頃、六の大太鼓(午後6時)が鳴る。ここから、三番町の家はそう遠くない。

 72歳になった嘉陵だが、思いのほか歩けた事が嬉しかったのか、一首詠んでいる。 「思うよりとみこそ来つる富か岡 牛の歩みの淀みなけれは」

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