【2024年】ツイッターつぶやき
テレビコマーシャルで首都高の出入り口の一部ではETC利用ではないと利用できないインターチェンジが出てきていると注意を呼び掛けている。
ETCが導入され普及させるために割引などもありましたが、今やETCを利用しないとペナルティーがかけられることになってきた。人件費削減でしょうが、一方では値上げをしている。どこまで利用しても700円でしたが、今や長い距離を乗ると2000円以上になっている。また、本来は無料となる計画が反故にされた。
たしかにメンテナンスが必要になっていることは確かでしょうが、それを国や自治体がやらずに利用者負担になっている。その中で人件費を減らすこともされて利用者が不便となる。
≪過去の記事≫
【2004年】
隅田川の夜桜船に乗ってきました。
少しつまみを作っていき、ビールなどを買い込んで乗りました。浅草から出向をして隅田川を50分遊覧して浅草にまた戻ります。都営の水上バスですので運賃も手ごろ(1000円)です。
東京周辺にお住まいの方や、東京に勤めている方にお薦めです。
船の1階席はテーブルがありますので、酒などを持ち込むといいですよ。女性だけのグループでもビールなど飲みやすい雰囲気があります。
桜はまだ5分から8分咲きぐらいで今一でした。
来週いっぱいは楽しめるのでは?
【2005年】
(記事なし)
【2006年】
(記事なし)
【2007年】
昨日は、東京も気温が20度になり暖かでした。
公園の桜も一気に咲き始め、もう七分咲きです。この桜は早いようで他の桜は2分咲きから3分咲きかな。天気がよければ今度の週末はだいぶ見ごろとなると思います。
能登沖の地震の映像が多く入ってくるようになりましたが、やはり大きな地震だったようですね。
お見舞い申し上げます。
幸いにも亡くなった方は少なかったようですが、日常生活が大変でしょうね。
【2008年】
娘と千葉県の清水公園に行ってきました。
桜はまだ2分咲ぐらいでした。
もしかしたら来週の週末ぐらいまで桜見物が出来そうかな?
大きな公園です。のんびり歩いてきました。温室もある「花ファンタジア」(650円だったかな?)というところもあるのですが、ミモザが満開でした。変わった葉と花ですなぁ。。。。
「浮き草」 角田 光代 著
yom yomの前号「こうもり」の続編です。
「こうもり」での槙仁のマンションから消えて1ヵ月後、売れない舞台女優希麻子はテレビドラマのエキストラの仕事を通じた飲み会で林久信と出会う。
そして槙仁との出会いと同じように飲みつぶれて気が付いたら久信のマンションに寝ていた。
久信は、苦労しながらも売れてきたイラストレーターである。
希麻子はそんな久信に本気で恋をする。
しかし、この希麻子の恋はどこに惹かれての恋なのだろうか?希麻子は、今まで関係を持ってきた男とは違うものを久信に見る。それは「成功」した男の魅力?
希麻子にはこの「成功」というものが夢としてはあったが目の前には見えないものである。年に数回黒田という男が主宰する小劇場の舞台に女優として立つ場はあったが、生活はスナックでのバイトやほとんど金にならないテレビのエキストラという生活。希麻子の濃いは、久信という「男としての魅力」ではなく、「成功」への恋であるように思われる。だから久信の「成功」に結婚という形において会社のスタッフという自身の成功を見る。希麻子は必死に久信に働きかける。
「こうもり」での槙仁は、希麻子を「未来を感じない女」と見えた。久信にとっては、希麻子はどんな女に見えたのだろう。
久信は事務所に「有能」な女性を入れる。希麻子はここでも「成功」はしなかった。
「こうもり」で、槙仁は希麻子を見て思う。
「希麻子のいう成功がどんなものかはよくわからないが、(中略)実現するときというのは、不思議なくらい他人が気にならない。(中略)あとはもう、自分しかいない。(中略)」(yom yom2007年11月号53ページから)
「浮き草」においても希麻子は同じ失敗を繰り返す。「優秀」な女性スタッフの悪口を久信に吹き込んで自分を守ろうとした。
久信がその師の言葉として希麻子に言った「すげえって思った、その気持ちの強さだけがこれからの君を引っ張っていく力なんだぞ」(yom yom2008年3月号398ページ)という言葉を希麻子は理解できなかった。だから希麻子には久信がこの師の言葉に涙した意味がわからない。
久信と別れた希麻子は自身を「浮き草」という。
このように見ると、希麻子という女は馬鹿な女だと見えるようである。
しかし、空想的とも言えるような「成功」の夢ではあっても、自分の年齢面やその実力のなさがわかっていても「成功」を夢見る希麻子は憎めない女である。
そして浮き草は浮き草なりに、現実世界に埋没していった槙仁や、成功したにもかかわらず孤独のうちにいる久信よりも希麻子には強さがあるのかもしれない。
「40近いこの女の身軽さはすごい、久信の言っていた『すげえ』とは異なるが」 ((399ページ)
希麻子は自分を慰めるように思う。
希麻子は昼飯を何にするかと考える。
久信のイラストの看板に背を向けて「よし、昼はステーキだな、」と。。。。
もしかしたら、こんな希麻子を見て槙仁や久信も結婚は考えないが、どこかその自由さにうらやましさを感じていたのかもしれない。だから槙仁も久信も自分から分かれようとはいわない。久信は希麻子に職を紹介するし。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
テレビを観ているとクイズ番組が多い。
見ていて自分でも答えたりして楽しいのですが、何なのだろ?知識って。。。。
たしかにいろいろな事を知っていること自体はすばらしいのですが、一問一答。。。ある事柄について知っていると満足するがすぐに次の問題が出てくる。そして前回の問題とはまるで関係のない知識を引き出さねばならない。知っていることとその知識から何を考えるかがないですなぁ。。。
ニュースででもめまぐるしく知識の情報が入ってくる。それもまた一問一答的なものかなと思う。
でも、クイズ番組によっては、いいなぁと思うものもある。
知識があるかどうかのクイズではなくて、例えばある番組でやっている川柳の下五文字を考えたり、落語家の出題をする「謎かけ」の「何々とかけて 何々ととく」の「そのこころは」を考えるといったもの。これは知識だけでは解けませんね。頭を柔軟にして脳が活発に働きますし、考えるセンスが必要となる。正解にはならない答えを観ながら出しても100%はずれというものがないような気がする。
そういう意味では、本を読んだりするのも同じでしょうね。
もちろん知識を蓄えるための本というものがあるのはそれはいいと思うのですが、その知識を蓄えるにしても読者に考えさせるような文体や文学的センスやユーモアなどなどの心に響く本が良書となり、一時的なベストセラーではなくて長期的な、あるいは時代を超えたベストセラーになる。
クイズ番組を観ながらもいろいろと「考え」ましょう。。。。。うん
そしてすべては疑いながら考えよう。。。。
【2011年】ツイッターつぶやき
(掲示板より)
応援します!!
でも、僕は寄付はしないかも。。。。
こういう時期にも音楽や本という物は大切なのです。こういう時期に本の新刊情報などを書くなというあなたが間違っている。
そして寄付やボランティアというのが目立ちますが、今いろいろな物が足りなくなっている中、24時間操業で必要なものを作っている人がいる。そういう目立たない人の労働もまた被災地を助ける重要なものなのです。
今、寄付やボランティアを呼びかけること自体は良いことなのです。しかしそれをやらない人がおかしいと非難することは間違いなのです。強要するようあるいはそれをやらないと非難するような言動自体が害悪です。
今までこちらに書いて(お返事)来たことはすべてこの視点です。
あなたのような言動をしていることが被災地にとって害悪なのです。東京だってこの都市機能を守ろうとして働いている人がたくさんいるのです。それが結集して被災地を助けることになるのです。それぞれの持ち場で頑張っているのです。その中には音楽や本なども含まれるのです。
被災地に方が一番苦しんでいるというのは確かです。
そこにいろいろな必要な物を早く届けること、それにはそのものを製造して運ぶ人間が必要なわけです。貨車でガソリンや灯油を運ぶにしても鉄道関係者の労働なくして運べないわけです。先日も書きましたがいろいろな物を製造するにしても労働が必要なのです。その上に立ってぼランティアや義捐金が役立つのです。
何も僕はボランティアや義捐金活動に批判的なわけではない。
そもそもこの議論は、義捐金を出さないことへの批判だった。
「なにかしらにつけ文句をつける」何に?
「気に食わない」だけならもう議論はやめましょう。あなたはもっと冷静にならなくてはいけない。
今までもいろいろな募金がありましたがやっていないし、どうも募金とか寄付というのが嫌なんです。金が絡む心が嫌なのかもしれません。
募金とか寄付とかという形でなくて「も」いろいろな事柄についてみんなで考えようということを大切にしたい。
東京やそのベッドタウンに住み、都心に通勤する。鉄道は計画停電で遠距離部分は運休や間引き運転。そうすると数駅を歩いたりタクシーで金を使う。
労働するにも東京といってもいろいろと自腹で行かねばならない。都心の安いホテルに泊まる人もいるようです。
自分の仕事が社会から与えられているのですからそこに集中します。仕事を休んでボランティア(被災地に行ってお手伝いをするという)というものはできないです。
今この状況の中で自分のできることって何でしょうか?
被災地に残り頑張っている方や原発で命がけで復旧をされている方もいる。そこが一番大変で苦しいと思います。しかしそこをふまえて一人一人が何ができるかを考えているわけです。
そこにボランティアや寄付も自分ができることになるのはもちろんです。大切です。僕はこれを否定をするのではない。僕が否定をするのは、ボランティアや寄付をしない人はおかしいとか共用することがおかしいと思っているのです。金を持っているならのほほんとしているなら寄付でもしろといった論法がおかしいのであり、ボランティアや寄付が正しいからこそこれらの論法は害悪にもなるのです。
ボランティアや寄付でもない自分ができることはたくさんあってそれが社会を維持し被災地にも届いているのです。テレビなどに映し出されないあるいは呼びかけもされないものの中に地味な自分ができることがあるのです。
ですからボランティアや寄付とい形でも、この地味な注目をされないものでもお互いにがんばっているというものを共有しなくてはいけないということです。こういう一つになろうという動きを阻止するのが互いに批判をしあう言動なのです。それは害悪なのです。
五行目。。。「共用」ではなくて「強要」です。
人はいろいろな今の災害や事故の様子を見たとき、その心理状態によってはこういう時期にもかかわらず人に目が行く。不要な文句をならべて人の労働を邪魔するしかしない。気に食わないからなんだかんだといい並べる。
その目は今の社会に起きているいろいろな政治的経済的なものに目を向けるべきでしょう。原発の現状をどうするかとか。そうしないと発展的な議論ができない。最後は呪いの言葉。。。。
自然災害で被害を受けたり死んだりするのは因果応報ですか?違うでしょ?
まずはこれは違いますよね。
今回は東北での災害で大変な方が多くいらっしゃる。僕の小さな労働がいろいろな経路を通って被災地の方を助けている。僕が仮に被災にあったときは、他のところで働いてくださる方いろいろな労働の成果の生産物で助けてくれると思っています。
ブログ記事の転載ありがとうございます。(ただしこのブログをお書きになった方からのクレームはお許しください)
被災地から遠くにある人たちは、日常を過ごします。そして募金をしたりしても同じで日常を過ごします。それは被災地ではないので当たり前のことです。これが被災地の方を見捨てることにはまずならないということです。そして今回のような大規模な広範囲の地震災害と原発事故までも引きここされている中において自分の仕事をこなしていくということは大切なのです。むしろこの仕事こそがいろいろな物が作られて被災地に行く。これがなければボランティアも募金という金も生きないでしょ?仕事というものは大切でしょ?被災地の方を助けるにも。
ボランティアや募金をしても自分の生活を被災地まで下げて行う人はそうはいないでしょ。みんな被災地から離れた人は日常生活を行っている。被災地の大変さを踏まえていろんな人が今できることをやっているんでしょ。日常生活を過ごしながら。
ニュースを見たって関西の紙おむつなどを作る会社も24時間体勢になったといいます。そこにはたくさんの人が働いているんです。働いて被災地のためになるんです。
被災地の近くでも直接的なボランティアはやらなくても今までの生活を立て直すためにいろいろな職業の方が働いているんです。残念ながらも出荷停止になってしまった農業の方も。
それぞれに頑張って働いている人をその労働をなぜ理解できないのですか?
互いにそれぞれが行っていることを互いに認めなくてはいけないのが今でしょ。
こうして議論になるから働いていることも大切と書きますが、本来はこんな議論をしないで黙って働いて痛いんです。同じようにボランティアをやっている人も黙ってそれぞれに頑張っているんです。
そういう中でなぜあなたはこのようなことでこのような議論をするのですか?
それよりもあなたが今行っているボランティアのことをみんなに伝えるべきでしょう。
【2012年】ツイッターつぶやき
核保安サミットに野田総理が行っているという。
サミットでは、核施設のテロからの安全性の確保という視点を前提にしながらも福島の原発事故については「甘い想定にとらわれていた」として「過酷事故を想定した準備の不足も周辺住民の避難に関する混乱も甘い想定にとらわれていた」と。その中で「事故で露呈した原子力施設の脆弱性を克服する」と宣言するそうです。
(朝日新聞1面を参照しました)
現在北朝鮮の人工衛星(北朝鮮側の発表)の実験?を日本をはじめ多くの国がミサイル実験だと核開発とともに懸念を示しているし、核のテロは脅威にもなっている。その中でのサミットの位置づけとその中心課題は軍事やテロが中心となり、野田総理の宣言もこの位置づけとしてのものと言えるのかもしれない。しかし原発所有国はそうも福島原発の事故に対して無関心ではいられないだろう。この中で勿論野田総理は原発事故に触れざるを得ない。原発事故後も再稼働の動きが急であるが、その路線に沿っての発言ではあるが、上の引用の言葉には一つの事故への総括のようなものはあるだろう。
そこで大飯原発の再稼働を急ぐことと今回の宣言との落差を感じる。
1次ストレステストで安全性が確認されたとしての再稼働の政府の動きだが、これに対しては2次ストレステストが必要だという声も大きいわけです。「事故で露呈した原子力施設の脆弱性」はテロでもあるし自然の驚異でもあります。また大きな事故にはならないまでも一時停止をする事故はたびたびあり、中位の事故もあって今回の大きな事故にもつながったと見た方が良いと思います。数字は忘れましたがたくさんの小規模な事故が続くと中規模の事故がいくつか起きて、最後は1つの大事故につながるというような分析の数字もあるそうです。これも原子力施設という絶対安全とは言えない建造物でもあり危険な設備が持つたしかな脆弱性のはずです。
原子力規制庁という新たな組織に寄らず、福島原発事故時の旧組織で大飯原発の安全性を確認し、政府が地元を説得し、県原子力委は過去に関電から金をもらった委員が5人も入っているhttp://www.asahi.com/national/update/0325/OSK201203240241.html。これは古い形を残したままにまたもやつくりだされる安全神話でしょう。
【2013年】ツイッターつぶやき
保育園の数が少ないのでもっと増やすべきだというものが問題になっているが、これをどう見るのか?その一つ考え方こちら「保育園が足りないからどうにかしろ!?」にある。
すごい論理です。。。。すべてが逆立ちをしている。 女性が働けるのは再分配政策だから感謝しろ?保育所に入れることは子育て女性のワガママ?専業主婦への働く女性との差別?
この中身についてはまた書きたいと思うのですが、この文章を読んで改めて社会保障や保育園行政といった制度をどのようにとらえる傾向があるのかと考えさせられた。
社会保障やさまざまな行政のサービスとしての制度を受けることが「わがまま」だったりうけなかったりする人との「差別」だという論法が多くあるのですね。
これは今の社会の矛盾を見ないで自己解決(責任)ですべてを解決すべきという論理でしょう。
たとえば今さまざまな角度から生活保護の問題が出ていますが、本来ならば生活保護をうける人が少なければ少ないほどいいわけですが残念ながら増える一方です。中には不正受給者もいることはあるのでしょうが、なぜ生活保護が必要で受ける人が多くなっているのか?今の社会の矛盾でしょう。女性が夫と死別したり離婚をして子育ても真っ最中という時に働くにしても働く場所(子供がいることの障害など)がなかったり働ける時間が限られるのでどうしてもバイトやパートぐらいしかできないとなれば生活保護の必要性も出てくるし生活できる収入のためには安く利用できる保育園が必要になる。このようなことを見ないで自己解決だと済ませたり、それをわがままだとか専業主婦もいるのdからその女性との差別だなどと言える問題ではないはずです。しかしこれをわがままだとかで解決しようとする人々がいる。
または家計の助けとして働きに行ってもその収入がほとんど保育園台に消えてしまうといった問題もある。
そして家計面で困らなくても働きたい女性もいる。
ここで女性は働かせてもらうことができるのだからそれだけでも感謝しろはないでしょう。前近代的発想です。
社会保障や行政サービスの制度を利用することはわがままでも差別だとかいう後ろめたさを持つ必要ないのです。
保育園は女性社員が多い企業ではその企業自体が保育園をつくるといったうG気動きもあります。今、また情勢労働を企業が必要としてきていますが保育園も行政だけではなくて企業の責任という視点でも見なkれ江花ら見なければならないでしょう。
保育園なんて働く女性のわがままだとか、専業主婦に対する差別だなどという意識からは社会は発展しないでしょう。
【2014年】ツイッターつぶやき
2014年3月27日(木)
小雨が降る静かな道を歩いてスポーツジムへ。
早咲きの桜やいろいろな花がきれいでした。
筋トレを一通りやってからランニングマシーンで歩きました。
今日は携帯を持っていって歩数計機能を使ってみました。
4キロほど歩いたのですが7000歩ぐらいしか表示されません。
どうも少ないようなのですが、このぐらいなのでしょうか?
1万歩を目指していてのですが、案外1万歩というのは大変なんですね。
そういえば、ドコモのサービスの何歩歩いたかで東海道五十三次を歩くというのをはじめました。
スタートして品川宿まであと少し。。。。
切り干し大根の焼きビーフン風
昨夜は時間がなかったのでレシピ(ほどではない(笑))忘れないうちに。。。。。
細い切干大根を水で戻りて絞っておきます。
シラタキを茹でてあく抜きをして適当な長さに切っておきます。
油揚げ2枚ほどを短冊に切っておきます。
合わせるタレを作っておきます。お湯・砂糖・酒・塩麹・スープの素・醤油少々。
桜エビ(乾燥したもの)
切り干し大根とシラタキそして油揚げをゴマ油でよく炒めていきます。塩コショウをして(コショウは多めです)油揚げが少し焦げ目がつくまでさらに炒めます。そこに先ほどのテレタレとサクラエビを入れてを入れて水分がなくなるまで炒めたら出来上がり。
味と食感は、どこか焼きビーフン風。。。。。。おいしかったです。
日本は輸入大国ですから輸入したものを消費をしながら加工して輸出しなければならない。その意味において輸出大国なのである。輸出立国なのである。
ですから常に貿易収支は黒字でなければならない。
アベノミクスや日銀の量的緩和は円安誘導(通貨安競争)で投資を呼び込み輸出を増やす(競争に勝つ)ことを経済政策の柱としなければならなかった。しかし日本の大手企業を中心に中小も含めて海外生産に移行してしまっているわけですからたとえばもう相当以前からテレビの消費は日本製が多かったがそれは輸入となっていた。これと同じように日本企業の製品も輸入という形に多くなっていれば日本企業が競争に勝ったとしても日本という国にすればそれは輸出という形ではなくて輸入となってしまう。ですから貿易収支も赤字化が必然なわけです。これではアベノミクスの経済政策はうまくいくはずがないのです。
この輸出の拡大から経済成長が言われるわけですからこの経済成長もままならなくなる。
そこで公共事業による内需を増やそうとするのですがその財源は消費増税です。しかしその消費増税が生活関連の商品などの消費を減退させる。内需拡大はままならない。
消費増税は財政の健全化という約束が国際社会との間にある。1000兆円もの財政赤字の改善は世界から注目をされている。しかし消費税は公共事業にという方向ですから財政再建は見えてこない。もちろん消費増税で財政試験というのは無理があるわけです。国際的な信用が薄れるでしょう。一方に地銀も財政再建を国に求めてきたわけですから日銀が国債を引き受ける中での信用にもかかわる。国債をいつまで日本国内で引き受けられるか?
国債の信用が薄れればいつでも金利は上昇するでしょう。
しかし政府は経済の成長過程にあるという。ですから消費増税の10%を行わざるを得ない。デフレからの脱却も輸入品と消費増税による物価高という最悪の状態を見て脱却と位置づけられる。この景気判断を下に10%は強行される。もし強行しなければ国際公約に反することとなる。
経済矛盾はますます表面化していきますね。
そういえば国際公約とも言えるオリンピックに向けての原発事故の汚染すい問題も最近では完全にブロックというものが無理ではないかとされるようになっています。
外交面でも積極的平和主義の中身の矛盾が出てきています。
安倍政権の言葉による期待感やこうあるべきという論理そして膨大な約束事がこれからその実行として安倍政権に降りかかってきます。実行は内政においての改憲路線ぐらいに。。。。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
まずはツイッターから
「知恵を出す」。総理大臣の名前や政府職員がついている公人の総理大臣夫人の言葉自体に大きな言葉の力がる。総理夫人が副校長になればなおさら。役人も「知恵を出す」ことも考えるでしょう。昔威張っている人が、「俺が言おうとしていること、お前わかっているよな」と。僕は知恵は出さなかったけど。
忖度。。。総理や夫人の意向を察することが「知恵を出す」ことで、同時に知恵を出しておかしなことでも進めていくことが知恵を出すということ。しかしその経過や結果を「知恵を絞って行いました」と報告して喜ばれるならもうその経過や結果は単なる忖度ではなかったということ。
俺は関わっていないということにはならない。
法的には証拠がないだろうと。。。。?
しかしこれがトカゲの尻尾切りの温床でもあります。
「俺が言おうとしていること、お前わかっているよな」この言葉の後ろには、「お前が勝手にやったのだから、うまくやらなかったら、お前の責任だからな」という言葉が隠れている。
残るのは法的な疑いの書けの流れなどが。。。
トカゲのしっぽきりが成立する。
しかしそのトカゲのしっぽが常に「俺が言おうとしていること、お前わかっているよな」と言った本人に経過や結果を報告していたならばその忖度には違法性も出てくるのではないでしょうか?
こういった忖度や「知恵を出す」行為は社会全般にあるのではないかと思います。
露骨に労基法に違反することでも一般社員に「お前、わかってるよな・・・・」と言われれば労基法に違反する残業などもやらざるを得ない。しかし結果として過労死したり心身の病気になったりしたら、自己責任に。しかし労基法に違反した事実を公表すれば初めて違反が発覚する。ブラック企業が蔓延する。
こんな社会なんでしょう。
【2018年】ツイッターつぶやき
以下は2008年にホームページでそれまで「俳諧大要」を読んだ感想をまとめたものです。
時々子規の「俳諧大要」をペラペラ開きながら読み、そのつど感想をブログ内に「俳句考」として書いてきました。
まとまらないし解釈が妥当かは自信がないので巣が、「感想」としてと同時に「俳句ってなんだろ?」と考えながらの感想です。
これまで書いてきた感想の転載ですから箇条書き風になっています。
俳句のことを考えながら正岡子規でもと本棚を探していたら、「俳諧大要」という本が目についた。
もう15年以上昔に読んだ本です。
俳句とは?といったものを初心者に解説した本であり、同時に過去の俳句を紹介をして子規の味わい方のようなものの解説があります。
近代の俳句も子規から始まるとはいえ、子規亡き後は弟子たちの間にもいろいろな考え方も出て来て、今はさまざまな枝葉のような発展があるのだろうと思いますが、子規がどのように書いているかをあらためて読むのもおもしろいと思います。
俳句を文学(詩)に高めるための力強い文体に圧倒されます。
今読んでいる本に平行しながらぺらっと読み返したいと思います。
芭蕉の「古池や。。。。」の句を静寂とか解釈すが、芭蕉はただ、かえるが池にボチャンと飛び込んだというのを詠んだのだと。
漱石と子規とのあいだに、俳句はスケッチだという言葉がたしか出ていたと思うのですが、その自然などを見つめる目が大切ということだろうか?
「俳諧大要」は、初心者に向けて書かれていますが、初心者はまずこのスケッチをたくさんしろということかもしれない。
俳句には17文字とか季語を入れるとかいくつかの決まりがあるわけですが、子規は初心者に対してすごく寛大であり、字数。。。。18文字でもいいんじゃない。「雑」季語が要れられないならそれも。。。とか、まずは見つめる目を養うということを教えているのかもしれません。
かえって俳句のお師匠さんを気取る方への批判も。
決まりごとに縛られるより自由に目を肥やす。それがだんだんと決まりごとを守れるような俳句に進歩していきますよ♪。。。そんな子規の笑顔が見えるような著書です。
オリジナリティーな自由な心の中から出てくる言葉。。。。
東京は天気がはっきりせず薄ら寒さも感じます。
5月や10月、一年間のあいだに過ごしやすい季節というのは2ヶ月ほどかもしれません。まぁ、夏は好きですが。。。。
でも、過ごしやすいというのは人間から感じる自然です。もしかしたら人間だけではなくてすべての生物にもいえるのかもしれません。自然は、生物に対して厳しさを持つというのが基本かもしれません。生物は自然に順応することで生き延びている。
そうならば、一生物である僕も順応するしかない。もちろん順応しているから生きているわけですが、気持ちの中にある「嫌な季節・天気」というものにも心として順応しなくてはいけないのかなということです。
まぁ、嫌なものは嫌なのですが、自然を見つめる事でどうにか順応できるのではないかと思います。幸いに日本にはきれいな自然の移りゆきがありますし、それを心で感じ取ろうとする俳句というものがある。ううう。。。。ん、俳句かぁ・・・・
前回の俳句考1では、俳句はスケッチのようにそのままを詠むということかと書きましたが、俳句はこのように四季の自然を用いる事が基本で、その意味においてのスケッチといえるかもしれない。
しかし子規は、俳句に表現されるものは自然の景物に限るものではないと。「季以外の雑財」を取り入れて読むべきだと。そしてこの両者が並ぶ事により句の狭さがなくなると。
では、この「雑題」が何かを考えると、四季の自然以外ということから人の営みということだろう。それは農耕をはじめに四季折々の習慣などかもしれない。
自然に対する人間(人工)は、なんとなく見方によっては対立的にも見ることができるが、子規はこの両方がないと駄目だと。それは言うに及ばず人の感情が入るということではないか?
この意味においての人間の姿のスケッチでもあるということではないか?
ここに俳句の複雑さと面白みがあるのだろう。
子規は、このような意味での俳句を(人間の感情が入るにしても?)難しく詠めば高尚な句であると勘違いをしてはならないといっているようである。そうではなく「平凡なる句はなかなかに貴し」という。
その意味では
朝顔に釣瓶取られてもらひ水
という有名な句は、スケッチ的でありわかりやすく平凡さもある。
しかし子規は書く
「このもらひ水といふ趣向俗極まりて蛇足なり」と。。。。。
人の行いが現れているし、朝顔という自然の貴さも出ているが、これは俳句とは呼べないとも。厳しいですなぁ。。。。
もっと自然な形の中に心を表せということでしょうか?。。。。うううう
難しいですなぁ。。。。
第6章では、就学第二期に入ります。
「利根のある学生俳句をものすること5千首」
このぐらい詠めれば第二期に入れと。
利根。。。賢く機転が利くというような意味だそうです。「学生」については先のほうにも出てきましたが難しいです。
普通の人でも少しは学問のある者でも1万首詠めば第二期に入ってもよいだろうと。
この少しは学問がある者というのが難しいですなぁ。
明治の時代のインテリは、漢文や古事に詳しくといった教養を連想しますし、さらさらと毛筆で達筆な手紙をきちんと書けるとか。俳句にもこのような教養が出てくるようです。現代でも俳句の世界ではこの教養のあるないに俳句の深みが決まってくるのでしょうか?
仮にこれを伝統的な俳句とするならば、現代的インテリジェンスや教養、あるいは現代人の持つ機転のある頭のやわらかさから来る俳句もあるはずですね。季語も変化してきているようです。明治の子規の句も現代俳句、今の俳人の句も現代俳句なのでしょう。。。。
まぁ、どちらにしてもよりすぐれた頭脳や少しは学問のある普通の人でもない僕としてはたじろぎますなぁ。。。。
しかし、ここで書いている子規の言葉は、最後の第三期に上り詰める志、プロとはいわないまでも俳句雑誌などで名が通るような、俳人になることを目的にしているのかもしれません。これに対して学問はないが少しでも俳句を楽しみたいといういわば素人がいてもいいわけです。「俳諧大要」で言えば修学第1期にとどまる素人が大勢いることもまた俳句の世界を広げるわけです。でも、ただの大衆受けをするようなだけの俳句の世界ができてもとは思うが。。。
うん。。。1匹狼の自己満足?
こういう俳句もあっていいのかも(笑)
でも、学問はないから大層なことは書けないが、それでも正直に素直に書くこと。俳句でも読書感想文でも。
新聞の俳句欄を時々開いて入選した句を読ませてもらいます。
しかし、その句がどのような意味を持つのかがよくわからない。難しい漢字は読めないしその意味となるとなおわからん。
子規は書きます。
「天然を研究して深きものが熟慮したる句を示すとも、諸学の人はその句の美を感ぜざるべし。けだし彼は天然の上にかかる美の分子あることを知らざればなり。」
(66ページ)
優れた句を読み、その表現される世界を感じ取れないという事は、結局は優れた句は素人には作れないという事なのかもしれない。
子規は例句をあげながらその句は何を歌っているのかを書いている。たしかに子規の書く解釈を読むとその句の意味することがよくわかる。
たくさんの句を詠む事、読む事は、一緒だという事でしょうね。それには、さまざまな事物に心向けて勉強しなければならないということでしょうし、感じ取る心が必要なのでしょうね。
たった17文字ですが、それを文学に高めようとした子規ですが、初心者には優しさがありますが、17文字とはいえ奥深いものだぞと教えているのでしょうね。
でも、俳句の中の言葉は、その時代により現代人では理解できない時代性がある。現代人からすれば明治も遠い時代です。それ以上に明治の前ははるか遠くに過ぎた時代。現代語にも今の時代としての心に響く言葉があるはず。でも、子規の時代から離れた奇抜さだけの句は。。。。
今の時代の言葉で花鳥風月を。。。。それには、決まりという制約を受けながらもそこに真の自由のおもしろさがあるのかもしれない。
「俳諧大要」読了。
その他のものは後日時間があったら読み返したいと思います。
2018年追記:またそのうち読んでみたいと思います。
【2019年】ツイッターつぶやき
さて掃除をしようかぁ。。。。。
居間の真ん中に炬燵が鎮座している。
炬燵布団を炬燵の上にたくし上げて
腰を曲げて掃除機をかける
うっとうしいですなぁ。。。。。
それでも先日は花冷えになり炬燵のスイッチを入れた。
今秋も日曜日はまた寒さがやってくるという。
炬燵は片づけられませんなぁ。。。。。
炬燵の上には籠がありいつでもつまめるようにお菓子が入っている。
つい暇になると冷炬燵に入ってつまんでしまう。
カカオ72%チョコ・ポルフェーノール。
昼飯を食った後の昼寝は炬燵が一番。
炬燵は片づけられませんなぁ。。。
そうこうしているうちに、毎年5月の連休に入ってしまう
さすがに炬燵も邪魔になり。。。。
炬燵奉行の妻の鶴の一声で片付ける。
すでに暦では夏である。
日銀短観が出たが、業況判断指数が製造業においては19から13へ6ポイント大幅に悪化をした。非製造業においても24から22へと2ポイント悪化をした。
景気はアベノミクスにおいても前進はしていなかったが、さらに悪化の懸念が出てきた。
日銀の会合においても景気後退を懸念する意見が出ているそうである。
この中で追加緩和をすべきという意見も出ているようである。
政府は須賀官房長官の記者会見でもリーマンショックのようなものが起きなければ予定通り10%への消費増税を行うとした見解が示されている。
すでに日銀の緩和はその副作用が大きくなり都市銀行救済の必要さえ言われている。また追加緩和といってもそうは効果があるものは見当たらない状態。政府はすでに消費増税をポイント還元などの対策により消費増税分がなくなるような政策を必要としている。増税後はさらに景気対策の補正予算を必要とするでしょう。さらなる赤字国債は日銀による財政ファイナンスに頼らざるを得ないでしょう。
国の統計も信頼を失うほどにいい加減になり、首相発言もその場しのぎの言葉でごまかしている。ここから経済の混迷も当たり前といえば当たり前なのでしょう。
戦後最長の好景気というまやかしの言葉で国民を統制しようとしているが、経済は正直である。実感のない戦後最長の好景気にすぐに気づく。
【2020年】ツイッターつぶやき
以下僕のツイッターから
不要不急。。。。
あとは国民・都民の自己責任で、一つ一つの事柄にコメントはしない。
買い物や通院そしてもちろん仕事(労働者は土日は休みという常識を持ってはいけない)などは「要」なのですから生活に欠かせない事柄ぐらいははっきり説明すべきです。
緊急事態宣言を出せるように国は法的に決めましたし、都知事の会見の中身でも国民に威圧的な不安を与えるだけが目的なのか?そうではなくて国民に強い態度をとるならば、国や都の責任を自覚して国民の生活維持のために何を取り組むのかを説明しなければならない。だからスーパーの混乱が起きる。
今はスーパーの買い占めぐらいですが、国民生活全般の経済活動をどう維持するか、PCR検査をどう拡大するか、医療機関の対応はどうするかなど、具体的な対策を国民に示せば非常事態宣言などの威圧は必要ないんです。外国を見ても唐突な非常事態宣言が社会を混乱させている。混乱させてから対策では・・
感染拡大が追跡検査ではどうにもならなくなる恐れがあるなら、隠れ感染が相当数あることが想定できるのですから厚労省は検査体制を準備する。農業の持続を農水省が、人や物資の運送は国交省が、通産省は商業活動の最低限の確保、、、、、など。牛肉商品券がどうのということではない。
最低限の経済活動が必要ということであれば、そこには医療従事者も含めて働く人が必要でしょう。経済活動が収縮すれば企業は労働者を解雇したりすればいいという問題ではない。労働者が働き続けるために時短を行って労働者の健康から経済活動の長期維持するために補助金が必要。
なにもコロナ対策でラーメン屋さんをつぶす必要などないでしょう。
唐突な記者会見からスーパーに人がごった返すような混乱を作り、感染の心配を広げるよりもラーメン屋さんを維持したほうがリスクは小さいんです。
社会の混乱回避のためには非常事態宣言などという仰々しいものは必要ないでしょう。
テーブルなどを常に除菌して満席にならないよう注意しながらきれいな器で熱いラーメンをすすれば働く活力も生まれる。
その前提にはPCR検査の拡大が必要で、運悪く陽性になったらラーメンは我慢してもらうしかない。
若い労働者にはラーメンを食べさせる自由を保障しながら、この上で、高齢者や持病を持っている方の健康管理を幾重にも拡充することしかないでしょう。
【2021年】ツイッターつぶやき
青空と桜
昨夜からの強い風もやんで穏やか空
桜は満開です
【2022年】ツイッターつぶやき
欧州中央銀行のラガルド総裁がロシアウクライナ戦争では「データは、スタグフレーションの重大なリスクを示していない」と指摘したようです。(ロイター)
これはあくまでもウクライナの戦争の経済への影響分析でしょう。物価上昇と経済の後退が同時におきるスタグフレーションという言葉を使うこと自体が危ないと見たほうがいいでしょう。
スタグフレーションはハイパーインフレにもつながる危険性があります。アメリカのインフレ率は5%とも7%とも言われています。インフレは需給ギャップから来ますが、経済が過熱して供給が間に合わない状態になりますが、この経済がコロナなどで供給が鈍った場合にも需給ギャップは崩れインフレは起きます。これは経済が後退している中での物価上昇ですから必のスタグフレーションと言えるでしょう。そして大きなインフレにつながっている。
日本は経済の落ち込みがコロナ以前から続いていました。その中で輸入物価も上がり企業物価も上がっているようです。日銀の2%目標には現れない悪性の物価高が経済の陰で進んでいる。
先進国でもあるヨーロッパが例外ではないでしょう。
先進国のスタグフレーションはコロナやロシアの戦争というもので顕在化していくということだと思います。
【2023年】ツイッターつぶやき
マスクをするしないは個人の判断となりました。
この個人の判断の中身はなんでしょ?
もともとマスクはインフルエンザや風邪の時期にしていましたが、コロナ後はコロナ対策としてマスクをつけるようになりました。マスクをするしないは個々の判断が問われるはずです。
しかしネットもそうですが、テレビなどのマスコミを見ると、「顔パンツ」などと揶揄して、マスクをするしないは人前で顔を出すことについてと判断の材料がコロナから外れている。意図的にこのような顔パンツ議論でマスクをはずさせようとしているのでしょうか?
専門家はマスクとコロナを結び付けて一定の基準を出していますが、、、、
政府も含めてなぜマスクをはずすことに積極的になるのかがわかりません。外国ではマスクをしていないからぐらいですね。