済寧とその周辺の位置関係を示す図です。地図を見ながら行った所を順番に述べてみます。
4月16日に上海から動車組に乗ってエン州へ行きました。「エン」は一字の漢字で、「六」の下に「ム」を書いて更にその下に「ル」を添える字です。3枚目、4枚目の写真に漢字が出ます。エン州は済寧の県級市ですが、上海から南京、徐州を経て来た鉄道が、エン州で青島行きと北京行きに分岐するところです。この鉄道は済寧の東を通りぬけるので、エン州は済寧の玄関駅でもあります。また、孔子廟で有名な曲阜(きょくふ)の最寄り駅でもあります。曲阜も済寧の県級市です。
エン州の後、済寧へ行き、ここで一泊し、翌日曲阜から鄒城(すうじょう)へ行きました。地図では鄒の偏部分は「ク」と「ヨ」で表示されています。
鄒城の後、滕州(とうしゅう)へ行きました。鄒城、滕州共に古代中国で国をなしたところです。棗荘(湯桶読みで恐縮ですが、なつめそうと読むことにします)へ行きました。棗荘は済寧と並ぶ山東省の地級市です。棗荘から再び済寧に戻り、飛行機で夜遅く上海に戻りました。済寧には飛行場があるのですが、上海便は夜遅くに1往復あるだけで、往行は動車組にしました。
済寧を基点としましたが、それ以外にエン州、鄒城、滕州、棗荘と回ったので、済寧の旅とはせず、順番に紹介することにしました。それで今日からはエン州の旅を始めます。
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4月16日に上海から動車組に乗ってエン州へ行きました。「エン」は一字の漢字で、「六」の下に「ム」を書いて更にその下に「ル」を添える字です。3枚目、4枚目の写真に漢字が出ます。エン州は済寧の県級市ですが、上海から南京、徐州を経て来た鉄道が、エン州で青島行きと北京行きに分岐するところです。この鉄道は済寧の東を通りぬけるので、エン州は済寧の玄関駅でもあります。また、孔子廟で有名な曲阜(きょくふ)の最寄り駅でもあります。曲阜も済寧の県級市です。
エン州の後、済寧へ行き、ここで一泊し、翌日曲阜から鄒城(すうじょう)へ行きました。地図では鄒の偏部分は「ク」と「ヨ」で表示されています。
鄒城の後、滕州(とうしゅう)へ行きました。鄒城、滕州共に古代中国で国をなしたところです。棗荘(湯桶読みで恐縮ですが、なつめそうと読むことにします)へ行きました。棗荘は済寧と並ぶ山東省の地級市です。棗荘から再び済寧に戻り、飛行機で夜遅く上海に戻りました。済寧には飛行場があるのですが、上海便は夜遅くに1往復あるだけで、往行は動車組にしました。
済寧を基点としましたが、それ以外にエン州、鄒城、滕州、棗荘と回ったので、済寧の旅とはせず、順番に紹介することにしました。それで今日からはエン州の旅を始めます。
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平和堂のあるビルの銘板です。湖南平和堂商貿大厦とあります。大厦は中国語でビルの意味です。低層部分と高層部分があり、デパートとしての営業は低層部分だけですが、ビルの名前からして高層部分も平和堂が主要出資者のようです。
1998年の竣工です。1997年に東南アジア金融危機があり、その影響で人民元も切り下げになるのではないかと言われた時期に当たり、経済改革前だったので経済的には現在と比べられない困難な時期でした。平和堂の湖南進出の経緯はよく知りませんが、湖南省と滋賀県が友好提携関係にあったので、湖南省政府が滋賀県の紹介で平和堂を誘致したのだろうと思われます。
平和堂は、現在長沙で複数店開き、更に珠州でも新規開店して昨年中国で元気な日本中堅デパートとして日本マスコミにも紹介されていましたが、私が思うに平和堂に先見の明があったというより偶々滋賀県の斡旋で湖南省を紹介された平和堂が長沙に進出し、中国の経済成長に乗ったのだろうと思います。
1998年竣工と言えば、話があったのは1995年頃でしょうが、その当時は、中国が経済的に離陸できるかどうか疑問符がついていたころです。平和堂に先見の明があったと言えなくもありませんが、失礼ながら昔の中国のこと等よく知らず、カントリーリスクなどあまり考えずに長沙にでたように思えます。また、当時華やかだった八百半の海外進出に影響された面もあったでしょう。オーナー経営で、速断出来たこともこの場合よい方向に働いたのだと思います。
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1998年の竣工です。1997年に東南アジア金融危機があり、その影響で人民元も切り下げになるのではないかと言われた時期に当たり、経済改革前だったので経済的には現在と比べられない困難な時期でした。平和堂の湖南進出の経緯はよく知りませんが、湖南省と滋賀県が友好提携関係にあったので、湖南省政府が滋賀県の紹介で平和堂を誘致したのだろうと思われます。
平和堂は、現在長沙で複数店開き、更に珠州でも新規開店して昨年中国で元気な日本中堅デパートとして日本マスコミにも紹介されていましたが、私が思うに平和堂に先見の明があったというより偶々滋賀県の斡旋で湖南省を紹介された平和堂が長沙に進出し、中国の経済成長に乗ったのだろうと思います。
1998年竣工と言えば、話があったのは1995年頃でしょうが、その当時は、中国が経済的に離陸できるかどうか疑問符がついていたころです。平和堂に先見の明があったと言えなくもありませんが、失礼ながら昔の中国のこと等よく知らず、カントリーリスクなどあまり考えずに長沙にでたように思えます。また、当時華やかだった八百半の海外進出に影響された面もあったでしょう。オーナー経営で、速断出来たこともこの場合よい方向に働いたのだと思います。
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今朝の上海は曇りです。割と低いところを雲が走っているのが見えます。予報は一時雷雨、最高気温は31度、最低は25度です。明日、明後日は最高気温が30度の予報です。
常徳は昨日でお終いです。常徳からの帰りは往行と同じく長沙を経由しました。長沙は湖南省の省都です。長沙に着いて、上海へのフライトまで時間があるので、長沙をぶらぶらしようと思いました。
長沙は何度も行ったことがあり、あらかた見ているので、今回は長沙の平和堂を見ることにしました。長沙の平和堂は勿論常徳ではないですが、常徳の帰りに見たので、常徳への旅の番外としてお見せします。最初はその外観です。高層部分にロゴがついていますが、デパートは低層部分だけで、高層部分はオフィスかアパートです。
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常徳は昨日でお終いです。常徳からの帰りは往行と同じく長沙を経由しました。長沙は湖南省の省都です。長沙に着いて、上海へのフライトまで時間があるので、長沙をぶらぶらしようと思いました。
長沙は何度も行ったことがあり、あらかた見ているので、今回は長沙の平和堂を見ることにしました。長沙の平和堂は勿論常徳ではないですが、常徳の帰りに見たので、常徳への旅の番外としてお見せします。最初はその外観です。高層部分にロゴがついていますが、デパートは低層部分だけで、高層部分はオフィスかアパートです。
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