アメリカ人(正確にはウズベキスタン 人) にも収納にこだわる人がいることを知りました。お家の中は見事に片付けられていて、クローゼットにもこだわりが感じられます。とにかく家が広くて収納スペースも十分すぎるぐらい。何もかもが羨ましい😊
ダラスに来てわずか一日でマスク生活を忘れました。あんなに毎日毎日マスクをしていた2年半が遠い昔のことのよう。
そしてアメリカはやっぱり豊かな国なんだということを改めて深く実感しています。この豊かさには叶わない。
生活そして人とのつながりの豊かさの違いはどこから来るんだろう?国土の広さ、家の広さは心の豊かさにも大きく影響しているのかも。
サンフランシスコで乗り継いで、テキサスダラスまで来ました。一人旅だし、コロナの影響でどんなことになっているんだろうと、緊張と不安な旅でしたが、始まってみると以前と変わりません。個人旅行なので、唯一サンフランシスコのイミグレーションでしつこくいろいろ質問されたのが、以前とちょっと違うぐらい。旅行の勘が戻ってきました😊
2022/10/28 に羽田空港を飛び立ち、今はサンフランシスコからダラスに向かう飛行機の中です。
コロナですっかり諦めていた海外。また行く日が来るとは思っていませんでした。ナジマちゃんから結婚式の招待状が送られてきた時も、自分が行くことが全くイメージできていなかったけど、友人の家族全員に会えるチャンスはもしかしたら最後かなー、と思い、行動することにしました。
コロナと母の死からずっとアップしていなかったブログも再開😊
2カ月ぶりの投稿になります。
昨日は月命日でした。母の死から2カ月たちました。今でも母と病院で交わしたいろいろな言葉が思い出され、あれから2か月、いやもう2か月?と不思議な感覚です。母が確かに81年生きた痕跡は、いろいろな形で現れ、私たちを喜ばせたり驚かせたりしてくれています。
昨日は、使っていない部屋に置き去りにされていた本棚の整理をしていたら、母の小学校の時の文集が出てきました。地元の銀行の茶封筒に埃だらけの状態で積み重ねてあり、中を確認したらボロボロの状態の印刷物が出てきました。捨てる前に一応確認と思い、パラパラめくったら、「矢作南小学校六年卒業記念文集」という文字があり、「え~~~」と思い、母の旧姓を探したらありました!昭和26年の6年生の時に母が書いた文章に、70年の月日を経て、令和2年5月に出会うことができました。
母が私に見つけさせたのかもしれないですね。
このボロボロのわら半紙、このまま引き出しにしまい込んでしまうと、今度会う時には完全に印刷が劣化していてもう読めないかもしれないので、ここに記録として写しておきます。
私の病気 加藤美千子
四年生になったはじめでした。稲垣先生が病気で休んでいらっしゃったので小河先生が一人で教えていて下さった。
新しく南小学校のバッチが出来てもらいに行くときでした。急に腹がいたくなって一歩歩くにも腹がつるようでいたくていたくて机の上ではんでいた。
小河先生がおくすりを下さったので飲んだが一向なおらなかった。しかたがないので先生が自転車に乗せて家まで送って下さった。自転車がゆれると腹がどこかへいってしまうかと思うほどでした。家では新しく立った家のかわらふせでした。
お母さんが手を休めて野良着のなりで島のお医者さまにつれていって下さった。見てもらうと、もうちょうだから更生病院で手術をしなさいといって手紙を書いて下さった。
家に帰るとお父さんも困ったといっていらっしゃったが、しかたがないのでお手伝いの人にたのんで私をふとんにつつみ、リヤカーに乗せてつれて行って下さった。
更生病院につくと、色々しらべて、もうちょうだから手術をしなければいけないとおっしゃったので、いたいとどうしようかしらとびくびくしながらいった。
しびれ薬の注射をして白布をかぶせておきりになりました。
外のことはあまりしらなかったが、後でお母さんに聞いてみたら、切った時腹ばたがとび出たとおっしゃったので気持ちがわるくなった。切った所へ、ごむかんを通して毎日かえていらっしゃったそうです。そのうちに十日十五日とすぎ、すっかりよくなったのでたいいんした。くすりのにおいのする病院を出ると、なんとなくさわやかな風がふき、なの花は黄色くまんざかりでした。
家に帰ると、つき山のつつじの花が赤や白でとてもきれいに美しく私をよろこんでむかえてくれるようでした。
寄せ書きの言葉
私は今からラジオテキストなので、うんと英語を勉強してアメリカへ行きたい

涙なくして読めません。こんな優秀な医師がなぜ命を落とさなければいけなかったのか。
そしてどうして34歳という若さで命を落としてしまったのか…。コロナウィルスの本当の正体とは何なんだろうと考えさせられます。
李文亮医師が、2月6日夜9時30分に死去した
新型コロナウイルスの発生に対して12月31日、初めて警鐘を鳴らした湖北省武漢市中心病院の医師で、自らも感染し入院していた。享年34。
李氏には妻と5歳の息子がいて、今年6月に妻が第二子を出産予定だった。李氏が死去した7日、妻がSNSで声明を発表した。
その遺書はこちら
私は砂粒となる前に、故郷の黒土白雲のことが、また想い浮かんだ。子供の頃を何度想い返したことか。風は舞い降り、雪は真白だ。
生きられたら本当にいいのに。でも死ななければならない。もう二度と妻の瞼に触れることもできない。子供を連れて東湖の春の日の出を見ることもできない。両親を連れて武漢大学の桜を見ることもできない。白雲の深いところまで凧を揚げることもできない。
たまには、まだ生まれぬ子供の夢を見ることもある。彼もしくは彼女は、生まれるやいなや、大勢の人の中から私を探す。子供よ、ごめんなさい! 私には分かっている。あなたはただ、一人の平凡な父親だけを求めているということを。それなのに私は、いつのまにか平民の英雄になってしまった。
まもなく夜が明ける。私は去らないといけない。一枚の保証書を持って(李医師の病気を公傷にするという武漢市政府の証明書が出された)。これは、私のこの世で唯一の携帯品だ。
私を理解し、愛してくれた世間のあらゆる人々に感謝する。黎明の頃、私が山の丘を乗り越えるのを皆が待っていることを、私は知っている! だが、私はもう疲れ切ってしまった。
この世で、私は泰山より重くありたくない。また鴻毛より軽いことを恐れてもいない。私の唯一の望みは、氷雪が溶けた後に、皆々が変わらず大地を熱愛し、祖国を信じることだ。
春の雷鳴が鳴り響く頃、もしも誰かが私を祈念したいというなら、ごく小さな墓碑を立ててほしい! 別に偉大だとか書くことはない。ただ私という人間がこの世に存在していて、姓と名があって、畏れを知らなかったと証明してくれればいい。
墓碑銘に添えてほしいのは、この一句だ。
彼は生きとし生ける者(蒼生)のために話をした 〉



