2カ月ぶりの投稿になります。
昨日は月命日でした。母の死から2カ月たちました。今でも母と病院で交わしたいろいろな言葉が思い出され、あれから2か月、いやもう2か月?と不思議な感覚です。母が確かに81年生きた痕跡は、いろいろな形で現れ、私たちを喜ばせたり驚かせたりしてくれています。
昨日は、使っていない部屋に置き去りにされていた本棚の整理をしていたら、母の小学校の時の文集が出てきました。地元の銀行の茶封筒に埃だらけの状態で積み重ねてあり、中を確認したらボロボロの状態の印刷物が出てきました。捨てる前に一応確認と思い、パラパラめくったら、「矢作南小学校六年卒業記念文集」という文字があり、「え~~~」と思い、母の旧姓を探したらありました!昭和26年の6年生の時に母が書いた文章に、70年の月日を経て、令和2年5月に出会うことができました。
母が私に見つけさせたのかもしれないですね。
このボロボロのわら半紙、このまま引き出しにしまい込んでしまうと、今度会う時には完全に印刷が劣化していてもう読めないかもしれないので、ここに記録として写しておきます。
私の病気 加藤美千子
四年生になったはじめでした。稲垣先生が病気で休んでいらっしゃったので小河先生が一人で教えていて下さった。
新しく南小学校のバッチが出来てもらいに行くときでした。急に腹がいたくなって一歩歩くにも腹がつるようでいたくていたくて机の上ではんでいた。
小河先生がおくすりを下さったので飲んだが一向なおらなかった。しかたがないので先生が自転車に乗せて家まで送って下さった。自転車がゆれると腹がどこかへいってしまうかと思うほどでした。家では新しく立った家のかわらふせでした。
お母さんが手を休めて野良着のなりで島のお医者さまにつれていって下さった。見てもらうと、もうちょうだから更生病院で手術をしなさいといって手紙を書いて下さった。
家に帰るとお父さんも困ったといっていらっしゃったが、しかたがないのでお手伝いの人にたのんで私をふとんにつつみ、リヤカーに乗せてつれて行って下さった。
更生病院につくと、色々しらべて、もうちょうだから手術をしなければいけないとおっしゃったので、いたいとどうしようかしらとびくびくしながらいった。
しびれ薬の注射をして白布をかぶせておきりになりました。
外のことはあまりしらなかったが、後でお母さんに聞いてみたら、切った時腹ばたがとび出たとおっしゃったので気持ちがわるくなった。切った所へ、ごむかんを通して毎日かえていらっしゃったそうです。そのうちに十日十五日とすぎ、すっかりよくなったのでたいいんした。くすりのにおいのする病院を出ると、なんとなくさわやかな風がふき、なの花は黄色くまんざかりでした。
家に帰ると、つき山のつつじの花が赤や白でとてもきれいに美しく私をよろこんでむかえてくれるようでした。
寄せ書きの言葉
私は今からラジオテキストなので、うんと英語を勉強してアメリカへ行きたい