ご存じないと思いますが、私は小学校4年生から5年生の約2年間、愛媛県松山市に住んでいました。
親の転勤で、鹿児島市から松山市に転勤。九州から四国への転勤なんて、田舎から田舎に行くだけだから、大して大きな変化はないと大人は思ったでしょうが、小学生だった私にとっては今までの常識が常識じゃなくなってしまうぐらいの価値観の一大変化をもたらした街です。
そんな記憶に残っている街に、いつかは訪れてみたいとずーっと思っていたのですが、遂に実現しました。
なんと、45年ぶり!?
小学生の記憶に戻るには、トウがたちすぎてしまっていますが、どこまで記憶をさかのぼれるか。。。
まず自分の住んでいたところをどうやって探すかですが、これは以外と簡単。目印は、愛媛大学の農学部です。私たちが住んでいた社宅の真ん前にあって、今でもその大学はその場所にありました。
この大学には、近所に住む大学教授の娘(ガキ大将)に連れられて、忍び込んで遊びました。ドキドキしながら忍び込んで乗ったエレベーターのあるビルは、あの茶色のビルだったかも。その当時は学生運動最盛期で、校門は色とりどりの張り紙だらけだったけど、そんな気配は跡形もなくなっていました。殺風景すぎて寂しい感じです。日曜日で雨も降っていたので、人の気配がなかったけど、確かに私の記憶にある大学はこれです!
そして道を隔てた反対側にあったのは、私が目指していた場所。そこにあったのは、私たちが住んでいた社宅ではなくて、新しく立て替えられた社宅でした。
住所表示は、正円寺1丁目7。
そうです、ここです。こんなきれいな建物じゃなかったけど、場所は間違いなくここです。とうとう来てしまいました。感激!
当時の社宅には広い庭の中に、砂場やブランコがあって、社宅の回りは塀と木で囲まれていました。
なぜかその塀の上を歩くのが好きで、社宅に住んでいた他の子供達と毎日毎日塀の上を歩いていました。
一体どれだけ歩いた事やら。当然、車道側の塀の上も歩いた訳で、車が行き交うすぐ隣の塀の上を子供がヨタヨタしながら歩くという事は、相当危険だったと思うのですが、あまり親や大人に怒られた記憶がないんですよね。今だったらあり得ないだろうな。でもその時感じた恐怖心が記憶のどこかに残っています。あー、怪我しなくて良かった。
そして、愛媛大学と社宅の間には広い道があって、、、と記憶していたのですが、行ってみたら、「えっ、こんなに狭い道だったの?」と、記憶の誤差に愕然としました。いやいや、そんなはずはない、もっと広かったはず… と思って、母親に確認したら、「そうよ、バスが通るのに狭くて大変だったわよ」と言っていたので、今も昔も道幅は変わっていない様です。
子供の頃は、もっと広い道だったんだけどな。。。
次は小学校編です。