北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】東寺観桜,無理な左右対称省いた平安京造営は多様性と日本の自我その基点と包むさくら

2024-05-08 20:21:44 | 写真
■その個性長所悪癖すべて
 歴史と共に散策するというのはたのしいものです。

 京都には今の日本の成り立ちの背景となるものが幾つも存在している、それは価値観であったり文化観であったり制度の下となった習慣であったり。そして自分の依拠した文化や価値観というものは第三者の視点で客観的に見ることはじつのところ難しい。

 会議会議で日本の場合はトヨタなど幾つかの先進的な試みの企業を除けば会議が業務時間を圧迫するけれども会議を経なければ業務の具体性が確定できないために上限知らずの会議を続けている、しかしこれは責任を分散させる室町幕府の制度の延長といえて。

 前例踏襲主義というものは日本の国是のようなものですけれども、御霊信仰のような例外的なことを行った場合を実は直接の原因ではないもののほかに責任転嫁できない故に特定の対象に原因を当てつける結果と原因を曖昧化させた歴史の名残ともいえます。

 減点主義であり成果を伸ばすことを第一とする加点主義を採用できない事は過去の天平天然痘を経て島国でもあるにもかかわらず農耕民族で極端な地域主義となった為に一度の失敗を取り戻せないという価値観が数十世代積み重ねて醸成したものといえる。

 しかしこれも積み重ねがあっての物であり、東寺が造営された時代というのはまだ日本自身が、自分たちが何者なのか、ニッポンジンという概念を定着させることができなかった時代でもありまして、ここに大陸を模倣した平安京建設というものも含まれた。

 東寺と西寺の造営、しかし地形がそもそも広い平野部が限られ今の大阪平野さえ適地には見えるものの当時は湿地帯で建物を建てられる場所が限られ、火山性地形故に峻険な山間部からは活断層に割れ目に沿って不規則に大河が構成され水害も数多い。

 密教が間に合った背景には洪水多発地帯に近い西寺の方に資材を集中していたという背景がありますが、しかし結果、水害というのは毎年同じように降ることで起きるものではないし、秦氏による治水事業の成功という背景も含めるべきだろう、西寺が進む。

 空海に任された。当時の造営には武士の英雄と言われる坂上田村麻呂も造営官を命じられていますが、遅れているところに細心の部教師層が入りまして、その指示の高さから一気に進められました。そして密教寺院として長らく役割を担う事となります。

 結局のところ、先ず無理な左右対称というものを省いたことが当時の歴史的な意義の一つなのかなあ、と当時はまさか千年もこの寺院が親しまれるとは考えていなかったであろうことともに思い浮かべる次第です。そしてもちろん多種多様な信仰の寄る辺にも。

 寺院が歴史を超えるには役割というものが重要でして、東寺がこう永らえた背景には真言宗が普及していった背景があります。もっとも、真言宗は先行する最澄の天台宗と、集中を防いだ政治的意図を考えてしまうのですが、併せて南都六宗への牽制も担う。

 多様性が叫ばれる現代世界ですが、一方で一つに集中させないという密教と南都六宗との概念は、結局排他的ではある日本に在って、外の文化はしかし積極的に取り入れる努力と、吟味する慎重さにより排他的すぎない文化観を醸成した事にも、なるのかなあ。

 永らえたことにより、こうして今日も当時の観桜を春の愉しみとできる訳です。散ってしまうまでは早い桜なのですけれども、京都満開宣言からはほぼほぼ一週間を隔てたのちの東寺拝観のこの順路というものは、かくも美しく彩られていましたね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】東寺観桜,さくらでこの春を振り返り真言宗から京都と日本の成り立ちを振り返る

2024-05-08 20:00:14 | 写真
■ 熱い冬寒い春急な夏日
 寒い春だと思えば急な夏日が有ったり北海道の方が京都より暑くなったりという春でしたが。
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 さくらでこの春を振り返りますと、そう、開花時期は昨年よりもだいぶずれてしまいこれは例年と比較しても数日は遅かったということですけれども、しかし散ってしまう時期というのは例年くらいでして、やはり春も暖かいを通り越しつつあるのかなあ。

 東寺のさくら、ちょっと考えまして久居駐屯地のあとで実は今年もゆったり伊賀上野城か名古屋城あたり、は遠いにしても津城と伊賀上野城は寄れるしいっそ彦根城経由でとも考えたのですけれども貴重な日曜日、こう東寺の観桜によることとしまして。

 枝垂桜は前の週に撮影した際のほうがくっきりと満開であることを告げていたようなのですが、枝垂桜と染井吉野の微妙な開花時期の違いからどう観桜を愉しむべきかと少々考えたものの、散りゆく枝垂れと満開の染井吉野という構図を撮影できたもので。

 教王護国寺、真言宗の根本道場というのがここ東寺の真名です。本尊に薬師如来を奉じる寺院は立地が南区九条町という、京都駅新幹線ホームからはっきりと見える寺院となっていますので、おそらく皆さんが最も目にすることの多い五重塔なのかな、と。

 八幡山金光明四天王教王護國寺祕密傳法院、正確には正式名称がこのように長いものなのですがほぼほぼ東寺の一言で通じます寺院は京都駅から近鉄線沿いに徒歩でも十数分、近鉄京都駅から東寺駅というのが最寄りなのですが、正門へはこちらがちかい。

 桓武天皇が開基となりました寺院で、その名の通り東寺とは左右対称に造営されました平安京にあって東寺と、そしていまは廃れたのちに消えてしまい石碑だけが残ります西寺と、官寺はこの二つのみを許すという指針と共に平安遷都が執り行われたという。

 西寺と東寺とともに左右対称に大陸風の首都を造営することとなった平安遷都ですが、左右対称をあまり平野部が広くない京都で執り行った為に西寺のほうは定期的に大堰川の水害に悩まされたといいまして、先に廃寺となってしまった歴史があるようです。

 真言宗の根本道場といいますが、しかしご承知の通り平安遷都の頃には未だ大陸から密教というものは伝来していません。実際その通りでして、桓武天皇は西寺の造営に尽力を命じましたので東寺の完成が遅れていたという事情で、密教が間に合った。

 長岡京からの遷都、桓武天皇は遷都を繰り返した天皇でありまして、いや実際、京都と東京、平安遷都から明治維新までと、明治大正昭和平成令和と続く東京が例外的と言えるかもしれない、けれども長岡京は二年に一度中心部が壊滅する水害多発地帯で。

 飛鳥京に藤原京と平城京に長岡京と平安京、短期間で続々と首都を遷都していました東寺の日本、大津京への臨時遷都もありましたし聊か方針が定まらない、国家の方向性に思い悩んでいた時代でもある。それが遷都まで行かずともと思われるでしょうが。

 中央集権体制を強化しますと天平の疫病として天然痘が大流行し国家崩壊しかける、しろ右大臣左大臣など行政実力者が短期間で次々と倒れいなくなる状況、体制固めの最中に所謂御霊信仰ではないですが大陸の易姓革命という概念も中途半端に入りまして。

 日本とは何者なのかが定まらない時期、しかし日本自身が九州や朝鮮との間で独自の冊封体制を試みるなど大陸の衛星国には留まらない考えなどを持っていた故、するとどうすればいいのかという戦略概観が持てないでいた、今と似る状況がありました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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RCH-155は装輪自走榴弾砲世代交代を呼ぶか?ピラーニャHMC発表と20年超えたカエサル装輪自走砲(榛名防衛備忘録)

2024-05-08 07:00:41 | 先端軍事テクノロジー
■榛名防衛備忘録
 富士総合火力演習に初公開された際の19式装輪自走榴弾砲の実物を見た際に砲員の座席があんまりだったことはいまでも鮮明に思い出せます。

 欧州において装輪自走榴弾砲の世代交代の流れが巻き起こるのかもしれません、イギリス陸軍はRCH-155装輪自走榴弾砲の開発についてドイツ政府と首脳会談で合意に至りました。これは長年の懸案であったAS-90自走榴弾砲の後継砲を選定するもので、特に稼働数の少ないAS-90のうち一部をウクライナへ供与したため喫緊の課題でした。

 RCH-155は、ドイツのKNDS社製ボクサー装輪装甲車の車体に52口径155mm榴弾砲の砲塔システムを搭載したもので、当初は暫定緊急調達されたスウェーデン製アーチャー自走榴弾砲や韓国製K-9自走榴弾砲がAS-90の後継と見做されていたため、降って湧いたRCH-155採用には驚かされましたが、ボクサーはイギリス次期装甲車でもある。

 ピラーニャHMC,そして続いて驚かされたのはGDLS社が突如ピラーニャシリーズの最新型にHMCという十輪型を発表したのです、もっともピラーニャシリーズを開発したスイスのモワク社は1990年代に105mm砲搭載の軽戦車型として十輪型を発表こそしていましたが、今回発表されたのは後部をモジュールスペースとした多目的型でした。

 GDLS社は後部モジュールには17tまでの様々な装備を搭載可能としていて、地対空ミサイルシステムや戦車橋と指揮通信車両としての用途に加えて間接照準砲兵システムの搭載を提案しており、即ちKNDS社に続く形でGDLS社も装輪自走榴弾砲を提案した事となります、そしてこれらは装甲車体を有しており、高い防御力を持つということ。

 カエサル装輪自走榴弾砲、さて2020年代までは、チェコや南アフリカなど一部の例外はあるものの装輪自走榴弾砲とはトラック車体に火砲を積載した簡易的な自走榴弾砲でした。もちろんボルボ装甲トラックに自動装填装置付き火砲を搭載したスウェーデンのアーチャー自走榴弾砲などもあるにはありますが、トラック自走砲がその代名詞でした。

 19式装輪自走榴弾砲もその系譜にありますが、トラック自走砲は問題点として装填など砲手が陣地進入と共に降車し射撃準備を行う必要があったのです、これは同時に砲手や装填手が暴露した状態であり、射撃準備に時間を要するとともに仮に敵砲兵の曳火射撃を受けた場合には陣地変換が一瞬でも遅れるならば大損害を被る事に他なりません。

 G6自走砲、世界の砲兵装備を見るならば南アフリカが開発したG6自走砲は、52口径ではなく若干砲身の短い45口径155㎜榴弾砲ではありますが、砲塔式を採用した事例は存在していますが、G6は車幅が3.5mもあり高速道路網や鉄道貨物輸送などを度外視する設計でした、この点RCH-155は車体がボクサー、戦略機動性をある程度考慮している設計なのです。

 FH-70榴弾砲のような39口径の牽引砲に対してトラック自走砲はもともと牽引砲の延長線でしかなかったのではないか、即ち52口径の長砲身を牽引することは前駆用が長すぎるために現実的ではなく、引っ張れないから牽引車に載せただけではないのか、これはカエサルが1990年代に開発されつつ正式採用まで10年を要した背景の一つ。

 RCH-155の開発、一見して重心が高すぎるよう危惧するのですが、この点で問題が無いならば、この誕生は、1950年代にM-108,M-109といった密閉砲塔を有する自走砲が開発されたことで装軌式車体に火砲を直載せした自走榴弾砲が一気に陳腐化したような、世代交代を呼ぶかもしれません、それは19式装輪自走砲も例外ではないのかもしれない。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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