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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】建仁寺,世界の終わりか?十二世紀は末法思想の時代に敢えて新時代の仏教を問うた明菴栄西

2024-05-15 20:20:19 | 写真
■禅宗は末法思想を超えて
 建仁寺の石庭と本坊庭園の新緑が如何にも見事であり春の到来は続く夏の到来へと進む事を確信しつつ拝観の巡行を前へ。ここは栄西さんが開いた寺院だ。

 明菴栄西、まだFateGrandOrderやドリフターズには出ていないな、と安心するのですが、実のところ日本の宗教的退廃に終止符を打ち、その宗教上の混乱が民心の混乱へと拡大する事も防いだことで日本の分断を抑止したという、一人の英雄といえる高僧なのだ。

 日本における臨済宗の開祖であり建仁寺の開山、栄西さんいついては高校日本史では、ああこのくらいを押えておけばよいのか、興禅護国論を著したということくらいまでは聞かれるか、という栄西さんですが、高校教科書でも横の歴史と繋ぐと驚くべき乱世の人です。

 末法元年、世界の終焉の始まり。末法思想はもともとひもとけばこれも仏教の変容の一つだと思う、元々仏陀が悟りを開いた際には宗教という体裁ではなく哲学のような、そういうにも悟りを開くまでの道程が司法試験や国一試験ほど明確ではないのが仏教の特性で。

 釈迦の教えが釈迦の入滅より時を経て忘れ去られ世の中が乱れる事によりこの現世を維持する事が出来なくなり世界の終焉が始まる、これが末法思想です。終末思想というのはキリスト教にもありましたが、これがいつかわからず、とりあえずミレニアムを思い浮かべ。

 欧州では999年には、それこそ終末が来るとか、神の国が近づいたという昔の森総理のような発言が公然と為され、終末トレインに乗ろうにも西武鉄道開業前ということもありますので右往左往していた時代があった、聖書には999年について何も書いていないのだが。

 仏教も変容していまして、こういうのも哲学的なものを独自解釈で広めていたものですので仏教の生まれたインド亜大陸では信仰は判りやすいヒンズー教へと転換してゆく、しかしその最中に仏僧がなんとか信仰を維持しようとヒンズーの神々を仏教に取り入れたり。

 ヒンズー教の信仰の広まりと共にインドの仏教界が示した一つの方向性が末法思想であり、これを示す事により信徒の維持を考えたのだと思う、けれども仏陀の哲学をこのように曲解する事こそも末法なのかなあと2000年を経て思ったりもするのですが、さてさて。

 仏典には末法の到来が西暦何年かは書いていない、そもそも西暦で仏典は書かれていないのですがのそもそも論はさておき、こうしますと独自の解釈を行う、信じる者は救われるのだアーメン、という感じなのかもしれませんが終末が不明というのは隔靴掻痒といえる。

 末法元年、日本では仏教と仏陀について記した“周書異記”を根拠としまして釈迦入滅を紀元前949年と解釈、これは今の歴史研究から大分ずれているのですが、神武天皇よりも前にしないと今の紀元五世紀釈迦生誕説では都合がわるいのか、そこから末法を計算する。

 釈迦の入滅から計算して西暦では1052年、当時の元号からしますと永承7年あたりがそろそろ地球が終わる末法元年ではないかと計算した。末法の到来は人々に恐れられ、貴族は寄進を続け仏僧は修行に諦観が生まれ諸人挙って盛んに経塚造営が行われたという時代だ。

 末法元年、難しいのはここで地球が終わる、と明記したのではなくそろそろここから終わりが始まるというのが1052年、終わりだよこの国、とか、終わりだよこの星、とか、終わりだよこの世界、という社会通念が、明確ではないけれども心の片隅に黒い滴を一滴、と。

 栄西さん、その大きな功績はそもそも世界が終るのではなく、仏教を最澄と空海以来の変革の無い古いままの思想哲学のままだからこそ、終わる様な末法思想が広がっていることを一種の堕落として、新しい禅宗を、持ち込むだけではない、定着させたことにあるのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】建仁寺,最初禅寺は神の実在性が真剣に議論された中世に世界の終焉へ立ち向かった栄西の寺院

2024-05-15 20:00:05 | 写真
■建仁寺拝観日記
 新緑の季節に建仁寺を拝観に向かいますと境内には茶葉の摘み取りお断りという張り紙とともに新茶の茶葉が迎えてくれた。もうそんな季節なのだ。

 建仁寺、京都の祇園から指呼の距離にこれほどの伽藍が、と思わせる寺院です。花見小路の先にその山門が佇んでいる、とこう説明しますと完全な歓楽街ということですからさぞや混雑するだろうとは思われるところなのですけれども不思議とそれ程混雑はない。

 東山の清水寺なんかは四月の行楽日和にゆきました方の凄かったという話がありましたので、そう八坂の塔や高台寺の界隈までは散策に歩み伸ばしますが、ふとかばん屋さんとか甘味処を除いたのちに混雑と知っているところまではいかない、と引き返すところで。

 禅寺、しかしここ建仁寺は意外な程に人の入りは少なく、いやそれでも閑散という寂しさはなくただ知られていないかという程度のある程度の賑わいはあるものの、この静寂さは不思議だなあとおもう。だからといって建仁寺、素通りできないほどの歴史は湛えていて。

 八坂の塔として親しまれ、京都を描くドラマならば嗚呼ここか、もしくは、此処を抑えておけば間違いないだろうと情景の一つとして撮影される五重塔が、調べてみると建仁寺の塔頭寺院、というと驚かれるのではないだろうか、塔頭寺院をみて本山を観ていない訳で。

 最初禅寺、こうも称されるのが建仁寺で、正確には禅寺は大陸から日本に持ち込まれた際に最初に博多にて小さな庵を構えていますから最初の禅寺というのは一考の余地ある表現なのですが、それでも京都最古の禅寺であり、日本で最も初期の禅寺であるのは確かです。

 禅寺、禅宗、新しい仏教なのですが、この歴史を紐解きますと、これも一つの日本の転換点に持ち込まれた概念、哲学、といえるものでして、特に平安朝末期から鎌倉時代初期にかけての日本国内の混乱と不幸か偶然か、哲学上の分岐点が重なった時代に伝わっている。

 欧州などでは神の実在性などが真剣に議論され、きょうかいの分断が民心の分断に繋がり、此処に生まれた権力や哲学と信仰に裏打ちされた民意の空白に乗じた変動から利益を享受、いや毟り取ろうとする勢力の介在が意図して制御不能の騒擾、大戦争さえ生んだ歴史が。

 仏の実在性、日本の場合は信仰の多様性と土着宗教や信仰とともに国家神道というべき原型と伝来した仏教とは折り合っていっけん混沌のような、しかしそれでいて偶然の調和を生んでいる事が、大きな分断を避け、もしくは調和を、無理ならば離隔で共存してきた。

 信仰は科学が未発達な、いや、時間や生命という分野では素粒子学や原子物理学との角度から切り込めばよいかさえ分からぬほどの現状ですから実は科学は判らない事のほうがまだ多い事を率直に認めなければ、今でも安易な新興宗教に簒奪されかねないのですが、ね。

 科学でさえもわからない事があるという事に踏み込めない程にまだ科学と民俗学の境界線が曖昧模糊とした時代ほど信仰の有する重要性は高かった、それが中世といえるようにも。もっとも、中世以前は人が冬を超えるだけで精一杯という時代ではそれさえなかったか。

 禅宗が日本に持ち込まれた時代は、実は真剣に“世界の終焉”というものが考えられていたものでした。もちろんいまの30歳代40歳代の方には1999年のノストラダムス、的な話題はありましたけれども、科学と神秘学の境界が曖昧な時代、終焉は現実の論点でした。

 世界の終焉、といいますと大袈裟に思えるかもしれませんが末法思想という、仏教が世界から忘れ去られる事により生じる現世の遮断というものが、ちょうど平安朝末期に重なる事から、天台宗や真言宗という仏教も世界の終わりを認識していた時代であったのですね。

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ウクライナ情勢-ショイグ国防相交代で安全保障理事会議事務次官任命,新国防相にベローゾフ第一副首相

2024-05-15 07:00:42 | 国際・政治
■防衛情報-ウクライナ情勢
 ロシアウクライナ戦争開戦後初めてロシアでは国防相が交代する事となりました。

 ロシアではショイグ国防相が交代しました。ISWアメリカ戦争研究所5月12日付ウクライナ戦況報告では、ショイグ国防相は国防委員会委員に昇格したというかたちをとり、後任にはベリーゾフ第一副首相が昇格したとしています。この閣僚人事異動はプーチン大統領が大統領戦後新体制として行った閣僚人事の一つ。ウクライナ侵攻後初の国防相交代だ。

 ベローゾフ新国防相は経済専門家であり経済分野の閣僚をほぼ10年間にわたり務めたという実績を持っており、ISWはこの閣僚人事について、ウクライナ戦争の長期化をロシア経済の国防産業化により支えるとともに、将来のNATOとの対決に備えたものであると分析しています。ショイグ氏は事実上昇格して、安全保障理事会議事務次官になるとのこと。
■デザートクロス1000ー3
 日本の場合はソフトスキン車は接敵前に下車して地形防御を活かすという運用を採用していますがさて。

 ロシア軍は中国製バギーやオフロードバイクの使用を強化している、イギリス国防省5月13日付ウクライナ戦況報告によれば、ロシアのプーチン大統領は2023年11月に中国の山東オーデス社製デザートクロス1000ー3バギーカーを視察しており、これは市販車でありアウトドア用ではあるのですがロシア軍は2100両を軍用として調達したとしています。

 バギーカーの活用について、ロシア軍は砲撃を加えた後のウクライナ軍陣地への接近に徒歩よりも軽快なバギーカーと、そしてオフロードバイクを使用しているという。しかしこれらの装備には防弾装甲は全くなく、ウクライナ軍は無人機によりこうしたアウトドア車両の識別と追尾能力がすでにあるとし、捕捉撃滅能力が戦場で実証されているという。
■チェチェン人部隊
 昔舞鶴でロシア艦入港の際にカフカス系の乗組員さんをみてお互いに手を振りあったものでしたが。

 民間軍事会社ワグネルの空白をチェチェン人部隊が埋めている、5月6日付イギリス国防省ウクライナ戦況報告によれば、現在ウクライナ国内には親ロ派チェチェン人部隊9000名が展開しているとのこと。もともと2014年のドンバス紛争以来投入されているもので今回の侵攻では緒戦の段階で大損害を被ったため一時後方警備任務に下げられていました。

 チェチェン人部隊が現在、再度最前線に投入されているとのことで、この背景には2023年5月のワグネル武装蜂起を背景にワグネル部隊を前線に投入できなくなり、チェチェン人部隊をその穴埋めに投入したとみられます。一方、チェチェンではロシアの軍事教育なども実施され、特殊部隊学校が置かれ、最大10日程度4万2000名が教育を受けたとのこと。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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