徒然なか話

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ブラジル移民100周年とネルソン吉村

2008-07-09 17:54:06 | スポーツ一般
 今年はブラジル移民100周年ということで様々なイベントが行なわれている。熊本県は全国でも有数の移民送り出し県で、日系ブラジル人130万人のうちの12万人が熊本県関係者だといわれている。その中の1人(であった)サッカーのネルソン吉村を今朝の熊日新聞の、移民100周年特集記事で紹介していた。これを読んで、彼が亡くなった5年前、このブログの前にやっていたホームページのコラムに彼のことを書いたことを思い出し、再掲してみた。
■ネルソン吉村(2003/11/3)
 今から33年も前の1970年8月29日の夜、私は東京・国立競技場のバックスタンドにいた。大阪万博を記念して招かれたポルトガルの強豪サッカーチーム、ベンフィカ・リスボンと日本代表との試合を観戦するためだ。当時のベンフィカには”モザンビークの黒豹”と呼ばれた伝説のスーパーストライカー、エウセビオが健在で、国立競技場を埋めた大観衆のほとんどが、エウセビオのプレーを見るのが目的だった。実際その試合でも彼はこともなげにハットトリックをやってのけ、その2年前のメキシコ五輪で銅メダルを獲った日本代表を圧倒した。
 もちろん私の眼もエウセビオを追っかけたが、私にはもう一人、目当ての選手がいた。それは日本イレブンの一人、ネルソン吉村だ。セレッソ大阪の前身であるヤンマーに初めての外国人選手として招かれた彼は、日本のストライカー釜本とのコンビで活躍していたが、来日後、日本国籍を取得し、代表チームにも呼ばれていた。この夜の試合でも日本の唯一の得点である釜本のゴールに絡んでいたと記憶している。ブラジルの日系2世である彼の父は、わが熊本県の出身であることもあって私には特別な思い入れがあった。彼はブラジル特有の柔らかなボールタッチや絶妙のトラップなど、当時の日本選手に最も欠けていた個人技に特長があり、日本のサッカー界に与えた影響は極めて大きいものがある。
 その吉村さんが、11月1日、脳出血で亡くなった。まだ56歳。日本のサッカー界のためにもっともっと活躍してほしかったと残念でならない。