徒然なか話

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森鴎外の清正公廟詣で

2020-07-11 22:41:28 | 歴史
 明治大正期の文豪・森鴎外は、小泉八雲や夏目漱石のように熊本に住んだことはないが、小倉の第十二師団軍医部長の時に熊本を訪問し、「阿部一族」など後の作品の題材を得たようだ。その小倉時代のことを記した「小倉日記」が残されているが、その中に本妙寺の加藤清正公廟(浄池廟)に詣でた時のことが記されている。それは明治32年9月28日のこと。熊本へ来て2日目のことだ。
 その日の午後4時、上林町の宗岳寺に、井沢蟠龍子(熊本藩士、国学者)の墓を参拝した後、「熊本城廊を廻りて」とあるので、おそらく、現在、熊本市役所から厩橋を渡って京町方面へ向かう県道を通って磐根橋を渡り、加藤神社の前を左折して新堀橋を渡り、城内に入ったものと思われる。その後、陸軍輜重兵第六聯隊の営舎(今の旧細川刑部邸)の前を通って砂藥師坂を下り、陣橋を渡って本妙寺田畑の田圃道を本妙寺へ向かったのだろう。寺に近づくにつれ、施しを乞う乞食やハンセン病患者が多かったと記している。「寺は丘上に在り」とだけ記すが、当時は仁王門やそこに登る石段がまだなかったことが窺える。黒門をくぐると桜馬場が真っ直ぐ延びて、その両側に多くの塔頭が建ち並び、行き止まりの右側に本堂があって、ちょうど補修工事中だったらしい。そこから急な「石級」(胸突雁木のこと)があり、三つの道があったが自分は真ん中を通ったという。現在は左右両側だけで真ん中は通れなくなっている。石級は約百六十段あり、その途中にハンセン病の治療施設があったようだ。登りついた清正公廟は「香花極めて盛なり」と記されている。藪孤山(江戸時代中期の儒学者)の墓も本妙寺にあると聞いていたので、あちこち探して回ったが結局見つからずあきらめて帰った。その夜、宿舎に落合爲誠、下瀬謙太郎の二人が訪ねて来たので、立田山南麓の小峰墓地にある秋山玉山の墓のことを尋ねたが、二人ともまだ行ったことがなく、後日必ず詣でて書面で報告するとの約束をしている。また鴎外は医師としてハンセン病治療の実情について、同じく軍医の下瀬にいろいろ尋ねている。


今は真ん中の道が通れなくなっている胸突雁木