徒然なか話

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熊本城 二の丸と三の丸

2020-10-21 19:06:14 | 歴史
 先々週でしたか、「津々堂のたわごと日録」さんが熊本城三の丸の呼称について疑問を呈しておられました。実は僕も前から不思議に思っていたことでしたので、熊本博物館の学芸員・中原幹彦先生におたずねしてみましたところ、次のような回答をいただきました。

 二ノ丸と三ノ丸は、時代によって区割りが異なり、判然としないのが現状です。
 現在の旧細川刑部邸は、以前は二ノ丸屋形跡と言っていましたが、現在では三ノ丸の範囲内になっています。
 富田紘一著『熊本城歴史と魅力』63ページ「四、熊本城の曲輪と城下町」には、下のように記されています。
 ・江戸時代前半には「曲輪(〇〇丸)の名称も時代により大きく異なっていた。」
 ・江戸時代後半になると、「本丸」と「二ノ丸」になった。
 ・現在、熊本博物館があるあたりを「三ノ丸」と呼ぶこともある。これは上段の二の丸公園部分と
  区分するためで、歴史的な呼び名ではない。

※江戸中期の宝暦年間(1751~1764)の熊本城配置図には次のように書かれている。


     左側が二の丸公園、その奥が三の丸駐車場。道路を挟んで右側が三の丸第二駐車場。
     熊本地震前、百閒石垣の上から撮影。


道路の左側が旧細川刑部邸(二の丸屋形跡)。右側が熊本博物館(三の丸?)。