徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

今は昔、京町台に森ありけり・・・

2012-11-16 19:36:22 | 歴史
 最近、わが家の近くにある「神風連の乱(明治9年)」ゆかりの与倉知実邸跡が更地となり、敷地内の木々もすべて伐採された。これで僕らの子どもの頃にあった周辺の大きな木は姿を消してしまった。かつて夏目漱石が人力車で通りかかり、「森の都だなぁ!」と感嘆した新坂は竹ばかりが野放図に繁っている。
 京町2丁目の、江戸時代後期には鳥町と呼ばれ、その後、裏京町と呼ばれた一角に「草分天神」という小さな祠の神社がある。この神社の由来は加藤清正公の熊本城築城時にさかのぼる。当時の京町台にはあちこちに森があった。築城の木材として京町台からも切り出されたが、ある時、適当な木を探して山の中に草を分け入ると、小さな祠があって天神様が祀られていたという。それを大事に持ち帰り、その後、現在の場所に祠を建てて「草分天神」と名付け、祀ったと伝えられている。つまりこの天神様は、かつて京町台に森があったことの名残りなのである。また、京町台の西側斜面、江戸時代には鉄砲衆が住んでいた一角には「榎坂」という小さな坂があるが、これもそこに昔、大榎があった名残りだ。
 遠い夏の日、大きな木の陰に停めた荷馬車の傍で、馬車引きが腰を下ろして煙草をふかし、馬がのんびり草を食む光景を懐かしく想い出す。


草分天神


榎坂

細川刑部邸の秋

2012-11-15 17:49:40 | 熊本
 一昨日、急な雨風でやむなく引き返したが、今日は小春日和に恵まれたので再び細川刑部邸へ。さすがに今日は紅葉をカメラに収めようという人たちが次々にやってくる。今週末から来週いっぱいあたりが最も見頃になりそうだ。週末にはまた天気が崩れるという予報だが、紅葉を散らさないでほしいものだ。


邸前の大銀杏も紅葉のピークに近づきつつある。


白塀越しに見える紅葉に誘われるように


カメラを構えた人たちが三三五五と


何かの写真撮影クルーが


久しぶりに長屋門をくぐる


御広間に秋の柔らかな日差しが入る


御宝蔵の白壁と紅葉のコントラストが美しい


あと数日で庭の紅葉もピークか

山鹿温泉「さくら湯」の復活!

2012-11-14 18:26:51 | 熊本
 かつて山鹿温泉の元湯として山鹿温泉のシンボルだった「さくら湯」が38年ぶりに再建され、来る11月23日(金)に正式オープンとなる。今日はそれに先立ち、75歳以上のお年寄りを対象とした無料開放が行われたので母を連れて行った。90歳を超える母一人では心もとないので姉を付き添わせたが、二人とも「さくら湯」の魅力を十分堪能できたようだ。二人によれば、何よりも木造が人にやさしい雰囲気を醸し出していることや、ややぬるめながら湯冷めしない湯が素晴らしいことなど絶賛だった。
 今から約370年前の寛永17年(1640)に肥後細川藩初代藩主・細川忠利公が山鹿の温泉を大変気に入り、新築した御茶屋が「さくら湯」の起源。とても由緒ある建物である。この「さくら湯」が再び山鹿温泉のシンボルとして多くの観光客を惹きつけるスポットになることを期待している。

▼南側の入口


▼母も姉も満足気。


▼北側の入口(通常は南側が入口となるようだ。)


▼かつての「さくら湯」


▼入湯者で溢れたかつての様子




紅葉のシーズンが来たけれど・・・

2012-11-13 20:06:09 | 熊本
 そろそろ熊本城周辺の紅葉も見頃になりつつあるかなと思い、夕方、細川刑部邸前の大銀杏を見に行った。ところが急に雨まじりの突風が吹いてきた。だいぶ黄色く染まり始めた葉っぱが容赦なく吹き飛ばされていく。紅葉のピークまで葉を残してくれるかどうか心配になりながら早々に引き上げた。
 毎年、細川刑部邸前の大銀杏は、僕にとっていわば紅葉の「基準木」である。しかし、近年、紅葉の美しさが段々落ちてきているような気がしてならない。この大銀杏を意識して見始めた2007年が一番美しかったような気がする。地球環境の変化が影響しているのか、紅葉のピーク時期も変わってきているようだ。今年のピークは来週後半あたりかと思うが、さてどんな姿を見せてくれるだろう。

 ▼写真は2008年の細川刑部邸前の大銀杏

不思議な感動を呼ぶメロディ ~ 旅のはじめに ~

2012-11-12 16:08:37 | 音楽芸能

 NHKで不定期に放送されているドキュメンタリー「にっぽん紀行」のテーマ音楽に過ぎないにもかかわらず、これほど多くの人々を感動させる音楽を僕は他に知らない。ウォン・ウィンツァン(Wong Wing Tsan)が紡ぎ出すメロディは日本の原風景にも見事にマッチするのだが、彼の生まれや生い立ちにも似てどこか無国籍な響きも感じさせる。
 YouTubeのマイチャンネルに送られた感動のメッセージをいくつかご紹介したい。

▼Eさんより
この曲、いつ聴いても、何度聴いても、無性に切なくなり、涙が溢れてきて、心が洗われるような不思議なメロディー。大好きです。UPして下さった方、ありがとうございます。

▼Eさんへの返事
「にっぽん紀行」は放送が不定期なので見逃さないように新聞のラテ欄に注意しています。それもこのテーマ曲を聴きたいためです。ホントに不思議な魅力をもったメロディですね。

▼Cさんより
ほんの少し前に子供と別れました。
もうそうするしか、残された道はありませんでした。
今、子供がはじけて笑っている写真を見ながら、この曲を何度も聴いています。
思い切り声を出して、泣きたいのです。

▼Cさんへの返事
事情は存じ上げませんがお辛いでしょうね・・・
子どもと別れなければならないような経験はありませんが、転勤族でしたので、長男と次男はそれぞれ高校2年の時、旧勤務地に残して転勤しました。毎日夕方になるとちゃんと食事はしてるんだろうかとか心配が募って辛かった想い出があります。それから20数年が経ち、今では彼らにとっても自立するための貴重な経験だったのだろうとは思いますが、やっぱり今でも何かを失ったんだろうなぁという想いは拭えません。

▼再びCさんより
お気遣い頂き、ありがとうございました。
コメント頂いたことと重なるかもしれませんが、子供と離ればなれになって寂しい、悲しいという思いも当然あるものの、それ以上に、親自らが、自分の幼い子供に途方も無いマイナスのインパクトを与えてしまったこと、ごく普通に暮らしていれさえすれば、近づくことのなかったはずの逆境に追いやってしまったこと、それが親として情けなく、申し訳なく、つらくて仕方ないのです。
この曲のことは、以前からNHKの番組で流れているこは知っていました。この曲が聴きたくて、番組を見ていました。
アップして頂いているので、いつでも”思う存分”聴くことがで出来て、助かります。
この曲の作者の年齢は分かりませんが、このような旋律を奏でることが出来るということは、作者自身も大きな山谷のある人生を歩んできたということなのでしょうか。
この曲を聴くたびに、そんな思いがします。

▼Rさんより
どんなに疲れたときも、悲しいときも、この曲が心の奥底にまだ残る希望の粒をきらりと光らせてくれます。

▼Rさんへの返事
> 心の奥底にまだ残る希望の粒をきらりと光らせ・・・
素晴らしい表現ですね。心に染み入るとはまさにこんな音楽のことを言うんでしょうね。

▼Sさんより
この曲を聴いた瞬間、
生きていて良かったと思いました。

HIROさんの写真(3)

2012-11-11 15:30:03 | 美術
 HIROさん撮影の写真の中から、10月20日に熊本城本丸御殿で行われた「秋夜の宴・桔梗の巻」から、4枚ご紹介したい。
 いずれも“ザ・わらべ”の中村くるみさんと上村文乃さん。
 また動画は、当日の演目の中から「おいでまっせ/とっとっと」のお座敷バージョン。
 ▼HIROさんのサイト HIRO☆Blog










肥後金春流と玉名女子高吹奏楽部のバッティング!

2012-11-10 19:04:30 | 音楽芸能
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」で来年1月14日に肥後金春流の能舞台が熊本県立劇場で行われることを知った。しかも目玉の演目が「田村」のようだ。この「田村」は今年5月、十三回忌を行なった僕の父の想い出の演目。と言っても父は「田村」を観たことはおそらく一度もなかったろう。父がまだ4、5歳の頃、泰勝寺の長岡家で聞き覚えた「田村」の謡曲の一節を父は生涯忘れなかった。おそらく原体験のようなものだったのだろう。このあたりの話は以前「一度放せば千の矢先・・・」というタイトルでこのブログに書き込んだ。僕もこの「田村」はまだ観たことがない。父の代わりという意味も込めながら、今度の公演は見逃すわけにはいかないと思っているところだ。
 ところが一つ困ったことが起きていることに気付いた。それはもう一つ、見たいと思っていた玉名女子高吹奏楽部のコンサートが同じ日の同じ熊本県立劇場であることに気付いたのだ。コンサートホールと演劇ホールとホールは別だが、時間帯の一部が重なっている。先日、全日本吹奏楽コンクールで金賞を受賞したばかりの玉名女子高吹奏楽部も見逃したくないし・・・。同じ場所なのでハシゴはできるが、どちらかの一部をあきらめなければならない。悩ましい問題だ。

古刹 成道寺の秋

2012-11-09 19:51:49 | 熊本
 しばらく行っていなかった「鳴岩の湧水」へ行ってみた。3ヶ月ほど前だったか、落石の恐れありとして立入禁止となっていたが、いつの間にか解除されていた。さっそく3ガロンのタンク2本に湧水を汲んだ。すぐ脇の「神風連五士自刃遺蹟」もきれいに整備されていた。1700年代に書かれた「肥後國誌」にも登場するこの「鳴岩の湧水」。これからもずっとお世話になりそうだ。
 今日は足を延ばして成道寺まで登ってみた。訪れるのは小学生の時以来だ。鬱蒼とした竹や木々の中に隠れるように古刹は佇んでいた。1426年の開山というから既に586年の歴史があるわけだ。紅葉に染まり始めた風景を熱心にカメラに収めている人が数名。ご住職の話では紅葉のピークはあと10日ぐらい先だという。この成道寺は細川家の家老を務めた澤村大学の菩提寺でもある。そんな話などをご住職と長い時間話し込んでしまった。10日後にもう一度紅葉を見に訪れよう。今度は歩いて。


鳴岩の湧水


「肥後國誌」に書かれた「鳴岩の湧水」


成道寺

ザ・わらべ ~ 六段くずし ~

2012-11-08 04:16:28 | 音楽芸能
 正月のテレビ番組や結婚式場などで誰でも聞いたことがあるであろう筝曲の古典「六段の調」。 京都銘菓「八ツ橋」の名前の由来ともなった江戸前期の音楽家・八橋検校(やつはしけんぎょう)が作曲した名曲だ。
 この雅な音色を一般大衆が好む端唄に編曲したものが「六段くずし」。「くずし」とは編曲という意味合いの言葉だ。京の芸妓さんにとって、言わば必須演目の一つになっているらしい。


♪ さんさ時雨か 萱屋の雨か 音もせずして 濡れかかる
♪ 潮来出島の 真菰の中で 菖蒲咲くとは しおらしや
♪ 仇やおろかで 逢われるものか 二町や三町の 道じゃない

400年前の大仕事! ~ 熊本城復元・第2期工事に想う ~

2012-11-07 16:27:44 | 歴史
 現在、「熊本城第Ⅱ期復元整備計画」が進行中で、来年には「馬具櫓一帯」の復元がなり、新たな見どころになる予定だ。さらに復元工事は「平左衛門丸の塀」、「西櫓御門及び百間櫓一帯」と、平成29年度まで続く予定だという。
 さて、この熊本城は1607年、加藤清正が当時の最先端の技術と労力を結集して築城したといわれている。この熊本城築城に携わった高瀬の大工棟梁・善蔵(ぜんぞう)が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書が残されている。この古文書を津々堂さんが自身のブログ「津々堂のたわごと日録」の中で連載されており、毎回これを読むのが楽しみだ。熊本弁でも県北の方言で書かれているので意味がわかりづらい部分もあるが、そのリアルな描写は400年の時の流れを感じさせない。
 その中のごく一部を現代文に訳してみた。誤った訳はご勘弁を。

 清正公は初め、築城候補地として杉島(加勢川と緑川に挟まれた中洲)に目をつけられた。しかし、そこは小西摂津守の領地とあって残念ながら取りやめられた。私はその頃からお供をして回ったが、結局最後の場所が茶臼山だった。お城が建つとなれば当然、町も合わせて創らなければならないので、さてお城の建て方の吟味ということになった。そうなると築城の考え方が重要。安土と大坂などのお城の組み合わせの見積もりをしなくてはならない。清正公から申し付けられたので、私の父を連れて各地の視察に出立した。
 高麗の御陣(文禄・慶長の役)の時には随分と苦しい目に遭ったけれど、この、よそのお城をいくつも見て回った時も並大抵の苦労ではなかった。図引き(設計)は父がすることになったが、熊本へ戻ってからいよいよ茶臼山の図引きということになった時、岩野の御武家・宗久隆様がこの役に就かれた。
 町は下津(棒庵)様が図引きの役、お城の図引きが出来上がった後に、それを清正公が飯田(覚兵衛)様、森本(儀太夫)様たちと知恵を出し合いながら長い議論をされたことを憶えている。お城が茶臼山手に決まってから、まず山の地ならしである。これが大事で、その次に材木と石の詮議。これはとても骨が折れた。この他、瓦焼きは江戸より下された飯田山の下で焼かせられた。材木は阿蘇、菊池、茶臼山周辺、権現山などから切り出しになり、石は六甲山、祇園山、岡見岳、津浦あたりからも取り寄せられた。木馬道から木と石を運んだが、車があったからこそ出来たのである。男山と女山の境目を断ち切って元の地形から茶臼山を引き直された大仕掛けは初めの城(隈本城)より壮大な普請であった。





現代に息づく “ややこ踊り”

2012-11-06 20:33:53 | 音楽芸能
 現代の歌舞伎や日本舞踊の始まりは慶長年間(1596年~1615年)に、出雲阿国(いずものおくに)が始めた「歌舞伎踊り」が源流だといわれる。そしてそのもとになったのは1500年代中頃より始まった大衆芸能の「ややこ踊り」だという。「ややこ踊り」が古い文献に登場するのは「御湯殿上日記」という御所に仕える女官達によって書き継がれた日記が最初で、天正9年(1581)の条に初めて「ややこおとり」という言葉が登場する。そして奈良興福寺の塔頭多聞院の僧侶らによって書き継がれた「多聞院日記」の天正10年(1582)の条に「加賀国八歳十一歳の童ヤヤコヲトリ」と具体的な記載が出てくる。その「国」という11歳の少女が幼い頃の出雲阿国だとされている。その後もいくつかの文献にその名が登場し、出雲阿国が慶長8年(1603年)春に北野天満宮で勧進興行を行って一躍スターになると「かぶき踊り」と呼ばれるようになるのである。
 「ややこ踊り」というのはその名のとおり「ややこ」すなわち稚児による踊りだったのだが、次第に年齢にかかわらず踊りの様式を指すようになっていったようだ。「ややこ踊り」は出雲阿国の出自が出雲大社の巫女だったと伝えられるように、もともと宗教的な意味を持つ舞、つまり神楽に近いものだったようだ。今日も日本各地にその名残りの稚児舞が伝統芸能として受け継がれている。
 熊本の女流邦楽家で日本舞踊の指導者でもある中村花誠さんが、平成12年に立ち上げた舞踊団「わらべ」は、基本的に江戸後期以降の文化を受け継いだものであるから、安土桃山時代に生まれた「ややこ踊り」とは趣を異にするのは当然だが、中村花誠さんの発想は400年前に出雲阿国らが大衆の喝采を浴びた「ややこ踊り」の再現にほかならないと思うのである。


愛おしき映画たち・・・その9 ~ 深呼吸の必要(2004) ~

2012-11-05 22:00:32 | 映画
 沖縄の離島にサトウキビ刈りの時期になると各地からやって来る若者たちの姿を描いた青春群像劇。いずれもワケありの若者たちが広大なサトウキビ畑に悪戦苦闘し、互いに反発・葛藤しながら、1ヶ月間ひとつ屋根の下で寝食を共にすることで連帯感が生まれてくる様子を沖縄の美しい自然を背景に綴っている。
 監督は「月とキャベツ」「はつ恋」「山桜」「小川の辺」などの篠原哲雄。出演は香里奈、谷原章介、成宮寛貴、長澤まさみ、大森南朋など今日のトップスターがずらり。他に金子さやか、久遠さやか、平良誠、北村三郎、平良ツル、上地雄輔など。
 観ていてホッコリとあたたかい気持になってくるいい映画だ。この映画のキーワードは、劇中、おじいが言う
「何てことないさ、ダメになったらまた初めからやり直せばいいさ」
 なお、現在、日本全国を転々としながら収穫時期などの短期アルバイターとして働く若者たちが大勢いる。

お伊勢参り ~ 端唄・俗曲の世界 ~

2012-11-04 21:15:25 | 音楽芸能

 端唄・俗曲には歌舞伎や浄瑠璃に材をとったものが多いが、この「お伊勢参り」もその一つ。
1番:浄瑠璃「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」通称「お半長右衛門」
2番:歌舞伎「天衣粉上野初花(くもにまごううえののはつはな)」通称「三千歳直次郎」
3番:歌舞伎「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」通称「白浪五人男」

 ここでは1番から3番までの歌詞しか歌われていないが、実際にはもっと多くの歌詞が存在する。題名は1番の歌詞から採ったと思われるが、この浄瑠璃は江戸中期に実際に起きた心中事件をもとにしているそうで、この「お伊勢参り」という端唄が歌われるようになったのは江戸後期のことのようだ。歌詞の中に出てくる石部というのは東海道石部宿のことで、僕が滋賀県の彦根に在勤の頃、草津から日野へ向かう時、よく通ったことを思い出す。

♪ お伊勢参りに 石部の茶屋で 会ったとさ 可愛い長衛門さんの 
  岩田帯 締めたとさ エッササノ エッササノ エッササノサ

♪ 雪の明日の 入谷の寮で 会ったとさ 可愛い直はんの
  膝にもたれて泣いたとさ 風に鳴子の音高く

♪ 振袖姿で ゆすりに来たが バレたとさ 腕に桜の彫り物が
  見えたとさ 弁天小僧菊の助

2012年熊本県短距離ベスト10!

2012-11-03 17:05:20 | スポーツ一般
 今年度の陸上競技熊本県ランキングが発表された。僕が毎年注目している短距離部門(100m・200m)の総合ランキング・ベスト10は下表のとおり。(11/12 修正版)
 今年は男子は江里口匡史選手の日本選手権3連覇、国体2連覇、ロンドンオリンピック出場などがあり、女子も野林祐実選手がインターハイで100・200の2冠、さらには国体の女子4×100mリレーで初めて3位に入賞するなど、近年になく充実したシーズンだったといえる。来シーズンはまた新しい顔ぶれが伸びて、さらにレベルアップしたシーズンになることを期待している。




2012岐阜国体・成年少年女子共通 4×100mリレーの表彰式
ゼッケン43番が熊本県チーム(新宅・野林・福嶋・吉良)

嗚呼! シャープ PC1210

2012-11-03 12:29:46 | 時事
 連日のように報道される日本の家電メーカーの凋落ぶりには暗澹たる思いを禁じ得ないが、中でもシャープが事業継続の危機的な状況に陥っているというニュースは衝撃的だ。というのは僕にはシャープには特別な想いがあるからだ。
 1980年代の初め、僕は東京で勤務していたが、ちょうどその頃、パソコンが普及し始め、間接部門のOA(オフィス・オートメーション)化が始まった。その頃のパソコンというのは今から見れば、とんでもないシロモノで、「パソコンを使う」ということは「プログラム言語を使ってプログラミングする」ということだった。社員のほとんどがおよそコンピュータなどというものに触れるのは初めてで、社内で専門家による「パソコン研修会」、実態は「BASICプログラム研修会」が始まったものの、ほとんどの参加者が挫折していたものだ。職場の中では若手の方だった僕は、職場の尖兵としてパソコンをマスターする役目を仰せつかった。しかし、予想どおり研修会に参加してもさっぱりわからない。これは独学するしかないと考えた僕は、当時人気商品になりつつあったシャープ製のポケットコンピュータ、PC-1210を購入した。言ってみれば少し賢い電卓なのだが、一応BASICのプログラムが組めた。これを業務処理に使うということはなかったが、プログラムを組むためのアルゴリズムの基礎を学んだ。その後、業務ではNECのN5200や富士通のF9450などを使って、BASICやCOBOLのプラグラムが組めるようになった。その後は表計算やデータベースなどのソフトが発達して、プログラムを組むということはなくなったが、僕にとってパソコン利用の原点となり、今日まで続くパソコンライフへのドアを開けてくれたのは“SHARP PC1210”であることは間違いない。シャープの復活を願うばかりだ。