徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

勤王の志士の故郷に立って・・・

2013-03-22 20:08:39 | 歴史
 御船町の吉無田水源へ水汲みに行った。帰る途中、宮部鼎蔵(みやべていぞう)一族の墓地と生家跡を通った。大河ドラマ「八重の桜」ではつい先々週、宮部鼎蔵が命を落とした池田屋事件が放送されたのを思い出した。車を停めて一族のお墓と記念碑にお参りをした。わが家からすぐ近くの内坪井には宮部鼎蔵の旧居跡があり、立田山山麓の小峰墓地にある宮部鼎蔵のお墓には度々お参りしているのだが、生家跡に来たのは初めてだ。ここら辺は現在は御船町上野と言う所だそうだが、御船町の中心からは随分離れた山里だ。しばらくあたりの風景を眺めながら、志なかばで散った勤王の志士の無念の情に思いを馳せた。
 生家跡の石碑の傍らにある説明板には次のように書かれていた。

史跡 宮部鼎蔵生家跡
 肥後勤王党の総帥、宮部鼎蔵は文政3年(1820)医者の長男として生まれた。
 このあたりを茶屋元といい鼎蔵の生家跡がある。大きなカシの木の下に出産のときの産湯の井がこけむして残っている。
 鼎蔵は名を増実(ますざね)といった。代々医家であったが、おじの宮部丈左衛門の家をついで山鹿流軍学をおさめ、30歳のとき熊本藩の軍学師範となった。長州藩の吉田松陰とは仲のいい友人であり、東北諸藩を遊歴して諸国の志士と交遊し、尊王攘夷の信念を深くした。
 文久元年(1861)12月、清川八郎らの来熊を転機に「孝忠」の遺訓を家に残し、或は熊本に、或は京都に、尊王攘夷の運動に活躍するが、文久3年8月の政変で七卿とともにいったん長州に落ちた。やがて京都に潜入、翌元治元年(1864)6月5日三条小橋池田屋で同志と会合中、新撰組に踏み込まれ、奮戦して自刃した。45歳であった。鼎蔵には春蔵という弟がいた。兄と同じく勤王家で、元治元年7月、真木和泉守とともに幕府軍を向うにまわして戦い、天王山(京都)で自刃した。近くの公園は宮部兄弟の名を一字づつとって「鼎春園」と名付けた公園である。
 鼎蔵、春蔵の歌碑が建っている。
昭和49年12月
御船町
御船町観光協会