飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

天皇陛下の真実!! 

2011-11-05 12:44:07 | ブログ

あまり知られていない天皇陛下の真実!!
心ある方は、知ってほしい・・・・・。
つまらない妨害電波に翻弄されるより、
日本の、そして、世界の
あるべき姿に
天皇陛下の大御心(おおみごごろ)を
汲むことがどれほどの効用か?!


 少し、長い。少しどころではないかも知れない。相当長い。何回かに分けようかと考えたが、一気に掲載するしかなかった。


 大和心(やまとごころ)とは、大(ひろ)く和すると書いてある。

13g20110316ttt0700348g30000


 その意を体することは、何にも増して重要であろう。それを排除して、日本はない。大和(やまと)はないのではなかろうか。その前に、変な国粋主義者も似非右翼も決して頭が上がるはずもない。


 それを天皇陛下の御製(ぎょせい)に観るのである。迷いは晴れた。さる方から教えて頂いた。


 その大御心(おおみごごろ)に生きることこそ、赤子足る日本国民の姿ではなかろうか? 大御心とは何か?


 大御心である。


 単なる、心ではない。帝心だ。私の心、あなたの心ではない。単なる一天皇陛下の御心でもない。大御心である。それを天皇陛下は示しておられる。


 下司(げす=下衆とも書く)な心は人それぞれであろう。言えばきりがない。論(あらが)う必要もない。批判するつもりもない。それは人間心であるからだ。


 しかし、大御心を推し量ることは、下司な心では出来ない。意味もない。ほとんど次元を異にしているからだ。


 ただ、大御心を拝し奉り、歩むことは可能である。それが日本国民として生まれた真の喜びではなかろうか? そう思い、広く拡散したい。

Photo


【転載開始】「身はいかになるともいくさとどめけり」


海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

以上四首の御製(ぎょせい)は終戦時のまことに限りなく畏(おそれおお)い御作であるが、この御製が一般に知られるやうになつたのは木下道雄著『宮中見聞録』が昭和四十一年一月に新小説社より出版されてからである。

木下氏は、大正十三年に東宮侍従、昭和二年には侍従、そして終戦直後の昭和二十年十月から二十一年五月まで、侍従次長として陛下の側近にをられた方で、退官後は皇居外苑保存協会理事長として御活躍であつたが、昭和四十九年末に亡くなられた。

この方の「側近日誌」が昭和天皇崩御後、御遺族の許可を経て新聞に発表された。この日記は終戦直後の陛下の御心境を伺ひ知ることの出来る貴重な第一級資料とし注目された次第であるが、この御製四首もその侍従次長時代に書きとどめられたもので、前記『宮中見聞録』一一七頁から八頁に、
〈昭和二十年八月十五日、終戦のときにも私は会計審査局(註・帝室会計審査局長官)にいたから、当時の陛下の御様子を語る資格はないが、当時お詠みになったお歌を後で拝見させていただいたので、四首ここに載させていただく。〉
とあつて、右記の御製を四首掲載し、
〈鳥にたとえては甚だ恐縮であるが、猛鳥の襲撃に対し雛まもる親鳥の決死の姿を、涙して思うだけである。〉
と簡潔に結んでをられるのみで、これ以上の説明はないが、「雛まもる親鳥の決死の姿」の一語に千言万言がこめられてゐる。

この『側近日誌』は単行本として刊行されてゐるが(平成二年、文勢春秋刊)、このやうな忠誠の士が側近にをられたことは有難い極みであつた。

昭和天皇の御製集は昭和二十六年刊の『みやまきりしま』(毎日新聞社)と、昭和四十九年刊の『あけぼの集』(読売新聞社)の二冊あるが、この四首の御製はそのいづれにも入つてゐない。と云ふことは正式には御発表にならなかつたのである。木下氏がもし側近にをられなかつたならば、この畏い御製も国民の眼にふれることもなかつたかもしれない。それだけに木下道雄氏が『冒中見聞録』で敢へて発表されたのであらう。

『歌人・今上天皇』の「増補新版」(昭和六十年、日本教文社刊)の中で著者夜久正雄氏は、
〈木下先生がこの御製を公表されたのは、重大な決心をされてのことであつたらう、と、私は今になつて思ふ。終戦当時の天皇さまの心もちをこれほどよく伝へるものはないからである。この御製は今上天皇の御製の中でも最も重要なお歌であるし、日本歴史の中に記念すべき重大なお歌であると信じてゐる。〉
と述べてをられるが、全く同感である。それは全国民の声であらう。何ものにも代へ難い御製である。日本歴史の上に永久にしるされる御製である。

昭和六十年、昭和天皇の御在位六十年を奉祝して各地に御製碑が建てられた。東京では「日本を守る東京都民会議」が中心になつて深川の富岡八幡宮境内に建立申し上げたが、そこへ刻む御製は、

身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて

に一決した。他にも、この御製を刻んだ昭和天皇讃仰の御製碑が各地にある。



昭和天皇は昭和二十年九月二十七日、占領軍総司令官マッカーサー元帥の前に御一人で立たれて「戦争の責任は一切私が負ふ。自分はどうなつてもよい。ただ国民が飢ゑないやうにお願ひしたい」旨のことを述べられたのであつた。昭和天皇は全くの素手で敵将の前へ立たれ、戦争責任の一切を御一身に引き受けられたのであつた。

このことは今や全国民のあまねく知るところであるが、当時はそのやうな重大な御発言があつたことは誰も知らなかつた。陛下はマ元帥との約束で、側近にも、二言もお洩らしにならなかつた。

陛下の御発言の内容が明らかになつたのは、それから実に十年後の昭和三十年のことであつた。

当時は第一次鳩山内閣の時代で、外務大臣は重光葵(まもる)であつた。昭和三十年(一九五五)九月、外相は用務を帯びて渡米することとなり、陛下にその旨を、当時、御滞在中であつた那須御用邸に参上し申し上げたところ、陛下から、先方でマ元帥に会ふ機会があれば「自分は元帥の好意を忘れないし、常に元帥の健康を祈つてゐる、と伝へて貰ひたい」との御伝言があつた。

重光外相は渡米後、加瀬俊一国連大使とともに九月二日マ元帥を訪ねて、その旨を述べたところ、マ元帥は今まで外部に洩らさなかつた十年前の陛下との第一回御会見の時の状況をつぶさに重光、加瀬の両氏を前に語つたのであつた。この報告記は同年九月十四日の「読売新聞」朝刊に発表された。

記事の見出しは「天皇陛下賛えるマ元帥―――新日本産みの親御自身の運命、問題とせず」とあり、「特別寄稿重光葵」とある記事であつた。

〈九月二日、ニューヨークにおいて、午前十時半、十年前の、この日を思い出でつつ、加瀬国連大使と共に、マッカーサー元帥の住んでいるホテル、ワードルフ・アストリアの玄関先に着きました。元帥の副官であったホイトニー将軍やスクリップ・ハワード通信杜主のロイ・ハワード氏らに迎えられた。〉

マ元帥との間に懐旧談があつた後(たまたま、この九月二日は十年前のこの日、日本の降伏文書に重光日本全権が署名し、マッカーサー総司令官がこれを受け取つた日であつた)、重光外相は陛下の御伝言を伝へた。これに対し彼(マッカーサー)は次の如く答へた。

〈マック「自分は日本天皇の御伝言を他のなにものよりも喜ぶものである。私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず、陛下のなされたことは未だかつて、十分に(adequately or fairly)世に知られて居らぬ。十年前、平和再来以来、欧州のことが常に書き立てられて、陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には、天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます。

私は戦前には、天皇陛下にお目にかかった事はありません。始めて御出会いしたのは、東京の米国大使館内であった。

どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。(much to my surprise)陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。(to my utter astonishment)
すなわち〝私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は、日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない。(go ahead)私は全責任を負います〟

これが陛下のお言葉でした。私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。

陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵(favour)を私に要請したことはありませんでした。とともに決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。(never lost his great sense of dignity)どうか日本にお帰りの上は、自分の温かい御あいさつと親しみの情(warm personal greeting and friendship)を陛下に御伝え下さい。その際自分の心からなる尊敬の念をも同時にささげて下さい。(an expression of my personal esteem)」

重光「それは必ず御受け合い申し上げます」

以上が私がニューヨークでマッカーサー元帥と再会した時に、元帥が天皇陛下の思い出を、興奮した態度で私に話したものを、当時同席したロイ・ハワード氏が速記していた記録に照らし合わせたものである。

私は、これを聞いた時は、ほんとうに感激した。終戦の当時、戦犯の問題はもちろん追放の問題まで大騒ぎであった。その空気の中で、天皇陛下は少なくとも親(みずか)らをかばおうとはせられず、戦争に対する国家国民の行動については如何なることも全責任を取る事を敵将に明言されたのである。

私の、この言葉は旧式の感傷の言葉ではなく歴史上の事実に対する感激の言葉である。この歴史的事実は、陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それが、ちょうど十年経った今日、当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何という、すばらしいことであるかと思った。われわれは、なお日本民族の伝統を保っている。今日も、君民一体、一君万民と古い言葉があるが、日本民族のうるわしい姿を、マッカーサー元帥の口から聞き得たという感激をもってワードルフ・アストリア・ホテルを正午近く辞去したのであった。〉

この記事を読み、国民は重光氏とともに感涙にむせんだ。この読売新聞の記事に、最も驚き、且つ感激した一人は、当時、行幸主務官として、この九月二十七日の御会見に随行した筧(かけひ)素彦(もとひこ)氏であつた。寛氏はこの読売の記事を読んだ時の感激を左のごとく記してをられる。
〈私は、御会見当日お供をしながら、知らぬこととは申せ、となりの室で、陛下が御一身を顧みられぬ、捨身の御申し出をなさっていたのに、つまらぬ時間つぶしの話など(註.バワーズ通訳と)していたのであった。
この特別寄稿の記事は、日本の歴史上、否、世界史の上においても、非常に価値のあるものであると確信するからである。〉(『今上陛下と母宮貞明皇后』昭和六十二年、日本教文社刊)



マ元帥は、重光外相と会談の九年後の昭和三十九年(一九六四)、朝日新聞に「マッカーサー回想記」を連載し、これが単行本『マッカーサー回想記』(上・下)となつて同年発行されたが、その中に於ても、左の如く語つてゐる。

〈私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現にこれらの国が提出した最初の犯罪リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。(中略)

しかし、この不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした。」

私は大きな感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。〉



この第一回御会見の前後の模様は前記筧素彦氏の一書に詳しい。それによると左の如くであつた。

御会見に随行したのは宮内大臣石渡(いしわた)荘(そう)太郎(たろう)、侍従長藤田(ふじた)尚(ひさ)徳(のり)、侍従徳(とく)大寺(だいじ)実厚、侍医村山浩一、行幸主務官筧素彦、通訳奥村勝蔵の六名で、鹵簿(ろぼ)は自動車四台、行幸のことは沿道の警官にも知らされてなく全くのお忍びだつた。

午前九時五十分に皇居を御出発、桜田門前では赤信号となりストップした。午前十時、大使館に御到着。マッカーサーは玄関にも出迎へなかつた。官房長のフェラーズ代将と副官のバワーズ少佐が出迎へ、ホールのやうな所でマッカーサーが傲然とした態度で出迎へた。陛下とマ元帥と奥村通訳のみが別室に入つた。他の者は控室で待機した。
〈もう四十分近くなって、皆、内心いささか心配になって来た頃、ドアのない隣室から突然、陛下がマ元帥と共に出て来られ、われわれの中にお立ちになった。私共も慌てて立ち、お迎え申し上げた。この時である。私共は本当に驚き、眼を疑う思いであった。先刻まで傲然とふん反りかえっているように見えたマ元帥が、まるで侍従長のような、鞠躬如として、とでも申したいように敬虞な態度で、陛下のやや斜めうしろと覚しき位置で現われたのである。(中略)

それから間もなく、陛下はお帰りになったが、その時、玄関までの間をお見送りする元帥はとても優しい感じで、陛下をお抱えするのではなかろうかとさえ思われた。そして、御到着の時には、玄関にお出迎えしなかった元帥は、今度は玄関の扉の外にまで出て来て、長身を屈め、いんぎんな態度で握手をするや否や、はっと我に返ったように急いで扉の中に消えた。これは事前打ち合わせにはなかったことであった。〉

マ元帥の態度が御会見の前と後では、全く一変したのであつた。陛下の「自分は戦争の全責任を負ふ。貴方は私をどのやうにしてもよい」との全く予想もつかない御発言にマ元帥は仰天したのであつた。それが陛下に対する態度の急変となつて現はれたのである。陛下のマ元帥への御発言は御製、

爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて

のままを御実行になられたのであつた。「身はいかならむとも」、「身はいかになるとも」く、ただ「民の上をおもひ」、「民をおもひて」の無私捨身の御行動であつたのである。

児島襄氏の異説について
ところが、陛下には、そのやうな戦争責任を負ふやうな御言葉はなく、あれはマッカーサーの作り話だと云ふ論がある。これは作家児島襄氏の論で、この異説を児島氏は「文藝春秋」昭和五十年十一月号と十二月号に連載の「天皇とアメリカと太平洋戦争」と云ふ長文の論文で論証し、その後もこの説を変へてゐない(後に『天皇と戦争責任』として文萎春秋より昭和六十三年に刊行)。

児島襄氏と云へば名著『天皇』の著者であり、東京裁判史観打倒に献身してをられる数少ない有志であるので、その影響するところ大である。氏の立論の根拠は何であらうか。

前述の如く、当時、天皇とマ元帥御会見の内容は極秘にされ、側近といへども誰も知らなかつた。但し、通訳としてただ一人同席した外務省参事官奥村勝蔵氏が会談の要旨を記録し、一部を藤田尚徳侍従長を経て御手許に差し上げ、一部は外務省の金庫に収めた。

この外務省の金庫に収められたものは、現在に至るも誰も見ることが出来ないものとされてゐる。

ところが、児島氏はどのやうな関係からか、言明を避けてゐるので判らないが、とにかくその奥村手記のコピーを入手し、その全文を前記「文婆春秋」に発表したのであつた。

この奥村手記には、重光外相の「特別寄稿」や『マッカーサー回想記」にある如き御言葉はなく、そのところは、
言ノ戦争ニツイテハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ、戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ、自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス。〉
といふ御言葉になつてゐる。

児島氏はこれを解説して「帝国憲法下の天皇は国の元首ではあっても、政治的決定を下す権限は与えられていない。当然に政治的責任を負うことはない。天皇は開戦の時も、終戦の時も全く同じ立場で対処され、意見は述べられたが、決定は内閣が行った」と説き、
〈終戦の時は確かに天皇のご意見を伺って、それに沿って政府が決定を下しました。しかし、開戦の時は天皇のご意見を聞いて決定をしたのではありません。内閣は天皇の意向には沿わなくても、責任を持って開戦を決定しました。その場合には、天皇は政府の責任ある決定を認めるだけのことであります。

ところが、終戦は天皇の「ご聖断」できまった。それなら開戦「ご聖断」で阻止できたはずだ、ゆえに天皇には「戦争責任」があるという主張を耳にします。これは結局、天皇の立憲君主としての立場を理解しようとしない論法だと思います。甚だしいのは、天皇がマッカーサー元帥と最初の会見をされた時、天皇が、自分が全責任を負うとか、自分は自分の身をあなたに任せるために来たのだと言われた、マッカーサーはそれを聞いて非常に感動し、それで日本が救われた、有難い、などという声も聞かれます。しかし天皇がそう言われたというのは、マッカーサーがそう言っているだけで、その御会見の一問一答を書きとめた奥村勝蔵氏の記録にはそのような天皇の発言は全く見当らない。

天皇は憲法を遵守することをつねに強調されていました。その憲法は、「聖慮」を示すことはあっても「聖断」はできないという立憲君主としての天皇の立場を明記しています。私は、天皇がそのような、憲法の規定を逸脱する、「自分に責任がある」というようなことを発言されるはずはない、と思っております。〉(大学教官有志協議会・㈹国民文化研究会編百本への回帰-第二十四集』平成元年、㈹国民文化研究会刊)と述べてをられる。これは児島氏らしい緻密な論である。但し、この場合は奥村手記が全く正確であると前提した場合である。



思ふに、児島氏はマ元帥の重光外相への述懐も、『マッカーサー回想記』もすべて自己顕示欲から出た作り話であると簡単に断じてをられるが、それでよいのであらうか。

ここで筆者が取り上げたいのは、初めてマ元帥がことの真相述ベた昭和三十年九月二の重光・マ元帥会談の前後の事情である。重光外相は陛下の御伝言をマ元帥に伝へるために訪問して、御言葉を伝へた。

これに対してのマ元帥の発言は、陛下の御言葉を承つての述懐であると云ふことである。そして彼は、重光氏に対し、
〈どうか日本にお帰りの上は、自分の温かい御あいさつと親しみの情を陛下に御伝え下さい。その際自分の心からなる尊敬の念をも同時にささげて下さい。〉
と伝言してゐる。これは他ではない、陛下への伝言である。マ元帥が自己顕示欲から云つた言葉であるとは到底考へられない。

思ふに、今まで、こらへにこらへて来た気持が陛下の御伝言を受けて、爆発したのであらう。この時に同席した加瀬俊一国連大使(初代)は現在も御元気で、去る日「天皇陛下御在位六十年奉祝委員会」が制作した映画「天皇陛下-世界に輝く昭和」の中で、このマ元帥と重光会談の状況を繰り返し熱誠こめて語つてをられる。

前後の事情からして、筆者にはマ元帥が作り話をしたとは、どうしても考へられない。



さらに、ここに今一つ動かすべからざる証言がある。それは当時、侍従長だつた藤田尚徳氏の手記である。藤田侍従長は陛下の御手許に差し上げる「奥村手記」を受け取つた本人である。
〈宮内庁の用筆に五枚ほどであったと思うが、陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている。
「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」

通常の文書の場合は、御覧になれば、私のもとへお下げになるのだが、このときの文書だけは陛下自ら御手許に留められたようで、私のもとへは返ってこなかった。〉(『侍従長の回想』昭和三十六年、講談社刊)

この侍従長が拝見した「奥村手記」と、児島氏が見た「奥村手記」とは明らかに矛盾する。どちらが正しいのであらうか。侍従長が拝見したものは当事者である陛下の御手許に差し上げたものであるから、ありのままであつたであらう。



次に、アメリカ側の有力な証言がある。昭和天皇が昭和六十二年(一九八七)秋に御不例になられ宮内庁病院に御入院、手術されたが、その直後に、陛下とマ元帥の第一回御会見の時、通訳としてマ元帥の側近にあつたバワーズ氏が読売新聞社アメリカ総局へ「特別手記」を寄せ、またインタビューに応じたのであつた。

御会見当日、バワーズ少佐はフェラーズ代将とともにアメリカ大使館玄関に陛下を御迎へしてマ元帥のところへ案内し、御帰りに当つては御見送りした人である。

この記事は、読売新聞の昭和六十二年十月二十六日付夕刊第一面、第二面に大きく掲載された。その重要な部分は左の如くである。
〈フェラーズ代将と私は、随行者たちを応接間の隣にある小さな書斎に案内して、世問話をして待った。
約三十分後、陛下と元帥は玄関の廊下にあらわれた。二人は親しげに握手をした。陛下のお顔には、ほっとした表情が浮かんでいた。フェラーズ代将と私は、車の場所まで、天気の話をしながら陛下をお連れして、車が曲がり、車道から消えるまで敬礼していた。
我々が玄関のホールに戻った時、元帥ははた目にみてもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた。彼は両腕を夫人やフェラーズ代将や私を抱くように広げ、あのよく響く声でこう言った。「私は平等な人間として生まれたが、あれほど全能に近い地位にあった人が、今かくもへりくだった立場になったのを見て、心が痛む思いだ」。そう言って、彼は感慨深げな様子で、一人でゆっくりと階段を上がっていった。
私は元帥がどれほど深く感動してしまったかを知り、驚いた。ついこの間まで、「日本人の罪をどんなに処罰してやろうか」とばかり話していた人物なのに。天皇陛下が「戦争犯罪人たちの身代わりになる」と申し出られたことに驚いたと、元帥は後に私に語った。「戦争は私の名前で行われた。私には責任がある」と陛下は説明されたというのだ。元帥はそのような考えを受け入れようとは思わなかったろう。天皇の存在なしでは占領は失敗するのだ。〉

以上のことで事情は明白である。陛下はマ元帥の前でハッキリと「戦争責任に言及され、その責任を取ること」を申された。その御心境は畏きながら本文冒頭に掲げた四首の御製そのままであられたと拝察する。

筧素彦氏も、児島氏の説に対し左の如く反論してをられる。
〈私はこれ(註・児島論文)を読んで慨嘆した。その人(註・児島氏)には、もっともっと次元の高い陛下のお気持ちが全然判つていないのではないか。陛下は、法理上自分に責任が有るとか無いとか、そんなことをお考えになっているのではない。陛下はいつもいつも、皇祖皇宗に対し、また国民に対しての御責任ということについて、人が何と言おうと言うまいと、まじめに厳しくお考えになっておいでになる方である。法律上、憲法上の責任の有無などということは超越しておいでになる。陛下は、そういうお方なのである。終戦の御決断だってそうである。私たちお側近くにお仕えした者には、そのお気持ちが痛い位にわかって、心からありがたく思わずにはいられないのである。しかも、陛下は何も仰せられないけれども当時の真実は勿論よく御承知である。それを御存命の陛下を前にこのように言われることはどうかと思うのである。〉(前掲『今上陛下と母宮貞明皇后』)

筆者も、筧氏の御考へと全く同じである。これ以上つけ加へることはない。

ただただ前記御製を繰り返し、繰り返し拝読し、陛下の御心懐を思ひ、何度も感涙の催すのを禁じ得ない次第である。



しかしながら問題は未だ残る。なぜ、陛下の御手元に差し上げた「奥村手記」と、児島氏が見た外務省の金庫に厳重に保管されてゐる「奥村手記」に異同があるのかと云ふ問題である。これについて私見を述べさせて貰ふ。

筆者はここで、どちらが正しいかと云ふ問題から一応はなれて、当時のアメリカ国内の天皇に対する世論、アメリカ以外の連合国の天皇に対する態度について述べる。

日本に進駐したマッカーサーは戦勝国の総司令官として、天皇に対し生殺与奪の権を握つてゐたことを前提として考へたい。当時、アメリカ国民の天皇に対する世論はどうであつたかと云ふと、昭和二十年(一九四五)六月の「ギャラップ」の調査によると、 

殺せ、拷問し餓死させよ………………三六%
処罰または流刑にせよ…………………二四%
裁判にかけ有罪ならば処罰せよ………一〇%
戦争犯罪人として扱え……………………七%
なにもするな………………………………四%
傀儡として利用せよ………………………三%
その他………………………………………四%
わからない………………………………一二%

であつた。実に米国民の七七%が死刑から戦争犯罪人までを要求し、ヒットラー、ムッソリニーと並ぶ憎しみの対象であつた。

かやうなアメリカの世論があり、また連合国の中でもソ連、豪州、ニュージーランド、中華民国は天皇をA級戦犯として裁判にかけることを執拗に要求してゐた。

(巷間、中華民国が天皇や天皇制を護つたと一部に伝へられてゐるが、なぜこのやうな誤伝が生じたか筆者には不可解である。当時、中華民国は天皇処刑の急先鋒であつた。また、マッカーサー回想記』に「ソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた」とあるが、これはマッカーサーの思ひ違ひで、英国からはそのやうなことは全くなかつた)

マ元帥は当時、天皇に対するこのやうな苛酷きはまりないアメリカ国内の世論と、ソ連をはじめとする連合国の要求の前に立たされてゐた。

この時、〝天皇が戦争の責任は自分にある。絞首刑になつてもかまはないとマ元帥に自首〟などとアメリカの新聞に出たらどうなるか、続いてそれが世界中の新聞に出たらどうなるか、全く収拾のつかない事態になるのは火を見るより明らかである。準備段階にあつた東京裁判など何処かヘフッ飛んでしまふ。

それより恐しいのは日本国内の大混乱である。それこそ、天皇陛下をお護りしようと日本国民は一旦捨てた武器を執つて占領軍と戦ふこと間違ひない。さうなつたらどうなるか、日本人は最後の最後まで戦ふ。最後の一兵になるまで、五年でも十年でも戦ふであらう。マッカーサーの日本占領は完全に失敗する。マッカーサーはそのことを最も恐れた。それを思ふと背筋が寒くなつた筈である。

当時の外務大臣吉田茂は千軍万馬の外交官である。そのことは充分に承知してゐた。吉田は当時、マ元帥とは特に緊密な関係にあつた。

外務省に陛下の御言葉のままの「奥村手記」があれば、それは危険きはまりない爆弾をかかへてゐるやうなものである。いかに厳秘にしても、いかなる方法で洩れるかも知れない(現に時期は不明であるが児島氏へ洩れてゐる)。そのことにつき、マ元帥と吉田外相の間に打ち合せがあつたかどうかは不明であるが、たとヘマ元帥の指示がなくとも吉田外相としては、そのやうな一歩間違へば日本に内乱が起き、占領政策が崩壊するやうな危険は必ず防止した筈である。

即ち、外務省に保管した「奥村手記」の中からは陛下の御発言の最重要部分を敢へて欠落させた筈である。これは筆者の推測であるが、間違ひないと確信する。当時の緊迫した情勢を思へば当然な処置であつたと思ふ。従つて、異なつた二通りの「奥村手記」があつて何の不思議もないのである。

要は、そのやうに緊迫した情勢の時に、陛下は堂々と少しも臆するところなく、御心境を敵将の前で述べ給ひ、万民を救はれやうとしたことをこそ、われらは肝に銘ずべきである。



最後に、東京裁判の裁判長ウェッブの言葉を紹介し、本文の締めくくりとする。

これは前述の「文藝春秋」の児島氏の論文に紹介されてゐる言葉で、児島氏が昭和四十四年(一九六九)秋、豪州のプリスベーン市にウェッブを訪ねてのインタービュー記事の最後のところを掲載されたものである。児島氏は東京裁判についての疑点、特に天皇の戦争責任について質問し、これに対してウェッブの答があり、最後は左の如く締めくくられてゐる。

児島「天皇についてどう思いますか」
ウェッブ「神だ。あれだけの試練を受けても帝位を維持しているのは、神でなければできぬ。そうじゃないか」【転載終了】


『数百人の原発作業員行方不明』の元情報

2011-11-05 10:12:36 | ブログ

既報『作業員が行方不明の真相?! 何故、突然死するのか?
したが、その元情報。
しかし、既に消したか、消されたか?


 元情報の転載を転載する。まあ、拡散だ。


 その情報もとである筆者は、下記の通りだ。



【転載】福島第一原発の作業員百数名が心筋異常を起こして亡くなられたという話を書かれたブログ主のProfessor.さん!

残念ながらミクシィを強制退会させられました!

彼は守秘義務違反の責任をとらされる可能性も有るのに、皆さんに事実を知らせてくれました!

彼の勇気に感謝致します!

参考までに、東北大学瀬戸教授 のプロフィールを紹介させて頂きます!

【経歴】

新田小学校・児童会長

東仙台中学校・生徒会副会長兼応援団長

仙台工業高等学校
機械科機械コース・生徒会長

京都大学
理学部理学科 物理学・宇宙物理学系

京都大学大学院
理学研究科 数学・数理解析専攻

【職歴】

震災以降は大学を離れ、復興のお手伝いをさせていただいています。

災害対策実行本部 統括監(原子力災害・文教環境担当)

災害対策実行本部 本部統括監【転載終了<ヨッシーさんより>】


 その東北大学であるが、『フクシマ』に関して、影が薄い。情報統制の最中にあるのであろう。真実には都合に鑑みない。都合とは、相対的なものだ。利と害が双極にある。そんなものに鑑みないのが『真実』である。

Tumblr_lqbiz07kyy1qi1yrpo1_400


 時の流れは、その全てを暴き出すだろう!必ずそうなる!


【転載開始】情報である瀬戸教授mixiアカウント(Professor.)は既に消えています。

10月半ばに福島第一原発へ現地入りしている方のようです。

恐らく本当なのだと思います。

以下、転載

皆様

長らくログインできずにおりまして、大変ご心配おかけし深くお詫び申し上げます。

早速ですが、本題に入ります。

東京電力は、福島第一原発作業員百数名が行方不明となっていると報告していますが、あれは嘘です。

実際は、放射性物質の廃棄に伴って強い放射線に曝され、心筋異常を起こしてしまい命を落としています。また、その方々は福島県立医科大学に『放射線障害研究用検体』として徹底的に管理されています。

もちろん、一企業作業員を殺したとなれば大問題となる。だからといって作業員の数が減ったことを隠す訳にはいかない。その狭間で出された結論が『行方不明者多数』というものです。

行方不明と処理された作業員家族には、莫大な額のいわば口止め料が支払われています。そのために公言する方がいないのです。これは一種の脅しだと思います。

私もこれをmixiで発言するべきなのか考えました。しかし、事実をお知らせするのも私の役目であると考えました。

この日記は、多分に即刻削除されると思います。また、転載をされますとその方にも何らかの制約がかかるものと思います。

しかし、情報統制に屈し真実を隠してしまっても状況は良くなりません。

以降も更新は続けますが、暗揄的な表現が多くなるかもしれません。その場合は私にメッセージいただければ、より深くご説明させていただきます

では。

転載終了。【転載終了】

※ 上記記事に関して、不確定な部分も判明しましたので、結果をもって、真偽を判断し、削除の可能性を否定しません。転載の方は、瀬戸教授の写真、リンクを外してください。(これは当方のケアレスミスです。)お願い致します。