飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

復活! 立ち止まる暇はない・・・!

2015-11-30 08:02:04 | ブログ

とは言うものの、
寂寥感と言いしれぬ喪失感は、
理性を超えてしばらくは漂うだろう・・・。
父親の死は、意志の喪失感だが、
母親の死は、虚脱感だ・・・。

 

6年前、『『老老介護』の介護に、帰ってきた!!』を書いて、

2か月丁度で、父は逝った。

その後、母は一人暮らしだった。

年々、足腰は衰え、家事を一人で熟すのも億劫だったようだ。

で、

もっぱらの帰郷は、

男所帯でささやかな食事を饗す楽しみだった・・・。

 

何しろ、

一人暮らしというのは、

自由だが、何もかもの雑務が一人の肩に掛かる。

畢竟、

帰郷する頻度も多くなった。

電話は3日と欠かしたことはなかった。

ある機能性外科手術で、

20日間入院を促し、同伴したこともある。

 

ホームケアーは、頑として受け付けなかった。

勿論、デイサービスすら年寄りくさいと嫌った。

ホーム入居など論外だ。


不調を訴えれば、臨戦態勢で待機した。

介護、介抱というより、

残された母の人生との同伴である。

逝く前日も元気な声で2度電話で話した。

その直後である。

突然に逝ってしまった。



<葬儀は神式・・・自宅で行われる>

 

当然、現場検証と検死の捜査は入る。

その最中に実家にたどり着いた。

おそらく、心房細動による昏倒死であろうと思う。

同居しておれば、心臓マッサージとAEDがあればと、悔いられた。

が、

時は既に遅いのである。

 

突然というのは、実にキツイ・・・。


巷に言われるように、「大往生」かもしれない。

年も、父親には及ばなかった(享年94才)が、

享年89才というのは不足はないと言えるであろう・・・。

 

しかし、

残された者にとっては、虚空に響く世間知である。

静かに一人になると、

思いは正反対のやり場のない怒りに憑りつかれる。

せめて、

2~3日でも臥せって、時間をくれなかったのかという思いなのか、

何かまだできる事はなかったのか? 

という自責の怒りなのかは分からない。



<地区民総出(多謝)の、最後の土葬かもしれない>

 

自分以外は、

親族も含めて、世間知に順じて気丈であるが、

自分がそれが出来ない。

かと言って、

表面上は、同じ様に振舞っている自分が許せない気分である。

 

父の死に際しては、

この度の逝った母が未だ居た。

その母のためにも気丈になれた。

今回は、誰も居ないのである。

この瞬間、故郷は共に消えてしまったかのようだ。

所詮は、幾つになっても子供なのである。

母親の前では子供なのである。

 

魂の法則を熟知する立場である。

その永遠性、不滅性を確信している・・・。

且つ又、輪廻転生も一点の疑いも挟まない。

なのに、

幽冥を異にするのは言いしれぬ虚脱感がある。



<最後の別れである>


少なくとも、

今生においては別れである。

それを味わうための必要な体験かもしれない。

そう必死に思っている自分が情けなくもある。

無数の同じ体験を、人々はしているのであるから、

殊更に一人感傷にふけるのは、

大人げない事かもしれないが、

母親の前では単なる子供に立ち戻るのである。

 

成人して、

涙を見せることは殆どなかった。

人前では兎も角、

一人で偲んでいると、

その不覚を止めることが出来ない。

涙を見せない姿が、

実は、

世間知に流された人生の不覚であったのかもしれない・・・。

 

涙は、

自分を正直な思いに誘う。

母親は、

理性を超えて、

本性の感覚を取り戻してくれる存在なのかもしれない。

理論理屈ではないのである。

 

さて、

この涙と共に煩悩を洗い流して、

明日からは、

残り多いとは言えない娑婆の激流を乗り越える為に、

再び復活する事としよう・・・。

激流に敢て棹差すは、

拙くも選んだ生き様だ・・・。

泣き言は、なしだ。

言挙げ仕様にも、

その存在は今生から永遠に消えた・・・。


誰もが通る途である。