北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

「”日本型”市民」像をめぐって いしかわ教育総研公開研究講座に参加

2014-07-05 | 教育
 今日は珠洲市内でも、能登空港でも参加案内をもらったイベントがあったが、金沢でも講演会、学習会、そして会議と集中したため、金沢へ。

  

 午前10時から石川教育総研公開研究講座に参加する。
 講師は本間正吾さん(現在の肩書は漢字が22文字と超長いので元高校教師としておく)、演題は、ゆたかな学びを否定する「安倍教育改革」~「”日本型”市民」像をめぐって~ とこれまた長い。

 それはさておき、講演は戦前から戦後、そして現在に至る道徳教育の流れを押さえる中で、国家がつくろうとした人材像を鋭く、鮮やかに浮かび上がらせる。
 (以下、かなり荒っぽい私なりの要約)

 道徳教育のヒーローとしての二宮金次郎、社会体制に順応し、上昇志向、競争志向、中央志向、権力志向。まさに立身出世。
 ふりかえれば懐かしい「ふるさと」。しかし懐かしさはやがて消えていくもの。

 さらにこれに続く野口英世は郷土から出る理想の人間=偉人である。

 彼らに象徴される「”日本型”市民」が国民国家、資本主義を発展させていく。

 注:野口英世自身は決して人格高潔な偉人ではない。Wikipedia参照。
  自ら調べ、自ら考えることが刷り込みに対抗できる力となる。

 道徳の中で日本の伝統がどのように受け継がれたか、ここにも注意が必用。
 明治維新前と後では日本の文明は連続性を持たない。
 9割を超す百姓町民の文化や価値観は否定された。
 が、ひとつだけ受け継がれたのが武士の文化、価値観である。
 学校や軍隊を通じて、武士道が刷り込まれ、日本はサムライの国という伝説がつくられ、最後は無責任な結末(降伏せずに死を選ぶ)に至る。

 戦後の「”日本型”市民」は憲法と教育基本法にあった。
 それは明治維新で切り捨てられた日本の伝統である「百姓町民」文化=共同主義、自治、分権、平和主義。

 しかしこれは可能性に終わり、現実は戦前同様、立身出世のエリート志向、旧来の「”日本型”市民」が登場し高度経済成長を支えていく。

 ただし、経済成長の終焉とともに立身出世はなくなった(エリートは先に決まっている。日本の教育システムとは関係のないところで育っている)。
 卒業式でエリートとノンエリートが分かれる「仰げば尊し」の「今こそ別れめ」はもうなくなった。

 ノンエリート=グローバルワーカーにとって、勝てば上昇できる競争の時代は終わり、負ければ脱落する負の競争の時代に入った。
 キャリア教育も、できないからダメと刷り込ませるためのもの。

 労働者とし切り捨てられても、日本人として期待されている = まさに在特会方式が脚光を浴びる!

 立身出世はもう幻想でしかないが、グローバルな競争に勝てる勤勉で低賃金の「人材」「人財」=現代版「”日本型”市民」が求められている。
 そういう意味で小学英語の必要性も叫ばれる。

 勤勉、規範意識、消費者意識・・・等々、ノンエリート=グローバルワーカーこそが道徳教育の対象。
 現代版「”日本型”市民」は部品扱い。
 基本的人権も人類の生まれながらの権利ではなく、「公」によって与えられたもの=自民党憲法改正草案。
 究極の部品はかつての特攻隊。

 対抗的「”日本型”市民」は働く場、生きる場を自治的に作り出す市民。
  ※これって都市より田舎の方がつくりやすいかも。

 対抗的「”日本型”市民」の存在と普遍的・不可侵の人権の尊重と公共の福祉の実現は一体 → さあ、もう一度、日本国憲法を熟読しよう!

 



 


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