能登空港が開港してから奥能登の中学校の修学旅行は東京方面に向かうことが増えた。
TDLや東京ドームは定番のコースだが、平和教育の一環として「第五福竜丸記念館」に立ち寄る学校もある。
焼津港のマグロ漁船「第五福竜丸」は米国によるビキニ環礁での水爆実験で被爆し、さらに被爆マグロが流通することによって消費者は大きな衝撃を受け、原水爆禁止運動がスタートした。
ちなみに、このときの被爆マグロは近江町市場にも入荷し、販売直前にストップがかかっている。ガイガーカウンターは大きく反応したそうだ。
以下は私が参加しているMLに紹介された第五福竜丸、そして久保山愛吉さん帰国の歴史的な意義を語ったアーサー・ビナードさんのインタビュー記事だが、修学旅行にに行く子どもらには是非知ってもらいたい話だ。
私は焼津にある久保山愛吉さんの墓前には行ったことがあるが、このような久保山さんの行動があったとは全く知らなかった。
米国がいまだに久保山さんの死因を放射線障害だと認めていない理由も、こんなところに起因するのかもしれない。
(以下、3月3日毎日新聞記事)
今、平和を語る:詩人、アーサー・ビナードさん
◇水爆暴いた「福竜丸」の勇気--アーサー・ビナードさん(43)
米国が南太平洋・ビキニ環礁で行った水爆実験で、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴びて間もなく57年を迎える。中原中也賞詩人のアーサー・ビナードさん(43)は「第五福竜丸は被害者の物語ではなく、勝者の大叙情詩」と語る。3・1ビキニデーを前に、ビナードさんに聞いた。
◇「核の冬」防ぐため世界へ伝えよう
--まず、第五福竜丸との出会いから。
ビナード 英語でラッキードラゴンと呼ばれるこの船について、米国の一般市民の多くは何も知りません。だけどベン・シャーンという画家は第五福竜丸の連作を描き、うちの父親はベン・シャーンが好きだったんです。ラッキードラゴンシリーズの絵も掲載された画集がわが家にありました。幼い頃のことなので、僕は船の名前が記憶に残っている程度でした。でも、その記憶があったので、来日してから第五福竜丸のことを少し調べ、百科事典などの解説を読みました。納得できなかったですね、正直言って。
--なぜ、納得できないのですか。
ビナード 第五福竜丸は水爆という軍事機密に触れて「死の灰」を浴びたのだから、米国防総省が証拠隠滅の一環として、撃沈を考えるはずです。つまり第五福竜丸は海底に沈められる可能性が高かったのに、2週間かかって焼津に戻ってきた。消されないで生還を果たしました。これは特筆に値します。
しかし、このことに触れる解説は少なかった。23人の乗組員が放射能症に苦しみ、半年後には無線長の久保山愛吉さんが亡くなったと、みんな悲劇だけ語るわけです。かわいそうな久保山さん、気の毒な乗組員という被害者の物語、犠牲者の物語でした。そうした一面はあっても、本質はそこでないと僕は思った。本当は英雄の物語だと。
--少し説明を。
ビナード 一言でいえば、無防備の木造船が軍事大国に勝ったのです。
乗組員は「死の灰」を浴びただけでなく、その灰を持ち帰った。彼らが採取したサンプルのおかげで、水爆実験だったことが判明した。それは偶然ではなく、乗組員の知恵と行動があったからです。
経験豊かな久保山さんは即座に、米軍の軍事機密に遭遇してしまったと察知して、仲間に指示します。「船や飛行機が見えたら知らせよ。その時は焼津に無線を打って、自分たちの位置を知らせる。そうでなければ無線は打たない」。米軍に無線を傍受されたら攻撃目標にされるとわかっていたのですね。もし発見されてしまったら、焼津に無線を打って最後の抵抗として足跡を残すつもりだったのでしょう。戦時中、徴用船に乗った経験もあった久保山さんならではだと思います。生き残るために何をしなければならないか心得ていました。さらには生き証人として、証拠品の「死の灰」を持ち帰り、その結果、ビキニ事件が広く伝わり、原水爆禁止の動きが世界的規模で湧き起こったのです。
それでも核実験は繰り返され、核保有国は増えました。だから核兵器廃絶運動は行き詰まって失敗に終わったと結論づけるのは、単純すぎます。失敗ではなく、今まさに継続中なのです。つまり負けてもいないが勝ってもいない。本当に失敗したら「核の冬」がきて、人類は生き残れません。住めない地球になってしまう。そうならないための抑止力として、核兵器廃絶運動はあり、だから今後も続けていかねばならない。人類が「核の冬」を回避できているのは、第五福竜丸の乗組員の勇敢な行動があったからです。
--ベン・シャーンが描いたラッキードラゴンシリーズの絵に、ビナードさんが文を寄せて絵本にしたのが「ここが家だ--ベン・シャーンの第五福竜丸」(集英社、07年に日本絵本賞)です。ビナードさんはこう書いて警告しました。「ひとびとは 原水爆を なくそうと 動きだした。けれど あたらしい 原水爆を つくって いつか つかおうと かんがえる ひとたちもいる」
ビナード 核兵器がなぜなくならないのか、とよく聞かれますが、答えは簡単です。もうかるからです。こんなおいしい商売は他にありません。米国防総省は核兵器をなくすことなど全く考えていないはずです。米政府は「国防のために必要だ」という呪文を唱えて、国民をだまし続ける魂胆でしょう。
チェンジを掲げて当選したオバマ大統領だけど、一番チェンジが必要だった国防総省に関しては、一切チェンジできませんでした。大統領でも国防総省のトップの首を切ることはできないようです。オバマ大統領は本気で核兵器を手放そうとは考えていないが、核兵器が使われたら困るなと思っているはず。だから意地悪くみれば、プラハ演説はテロ対策の一つの陽動作戦だったのではないかといえる。
--核廃絶の主役は。
ビナード 世界の市民です。国防総省も防衛省も予想できない市民レベルの地道な草の根運動を工夫しながら繰り広げていき、世界の核肯定論に小さな穴をあけるのです。僕は「蟻(あり)の一穴」という言葉が好きだけど、蟻みたいに働いて、国防のウソで固めた堤防に、核兵器でぼろもうけしている軍需産業のPRの堤防に、小さな穴をあける。巨大な組織は、そういう地道な真実の戦いに弱いはずです。
日本にいる僕らは第五福竜丸というレンズを通して核兵器を見つめることができる。これからは他国の言語でも、第五福竜丸事件のレンズを磨いていくべきです。勝利の物語として、その本質を語っていけば、大叙事詩並みのインパクトが伝わる可能性は十分ある。そうなれば世界の人たちの意識に影響します。
--心がけることは。
ビナード 一般市民は、軍事や国際政治に精通しているわけではないので、専門家の話に負けることがあります。専門家が集まって作業部会を組むと、それなりに説得力があったりする。しかしノーベル賞物理学者のスティーブン・ワインバーグは「専門家」をこう定義づけました。「専門家とは、小さな間違いを器用に避けながらも大きな間違いへと進んでいく人」。軍の政策を軍の専門家に任せると、僕らは「核の冬」に向かっていくのです。経済も経済学者に任せてはいけない、政治を政治家に任せたら大変なことになる。そういう意識を持って、専門家たちがコントロールする領域にも、市民の僕らが突っ込んでいく必要があるのです。(専門編集委員)
==============
■人物略歴
◇Arthur Binard
1967年、米・ミシガン州生まれ。ニューヨーク州コルゲート大学で英米文学を学び卒業後の90年に来日、日本語で詩作を始める。01年に詩集「釣り上げては」で中原中也賞、08年に詩集「左右の安全」で山本健吉文学賞を受賞。文化放送のコメンテーターとしても活躍し、著書多数。近著にエッセー「亜米利加ニモ負ケズ」(日本経済新聞出版)。
TDLや東京ドームは定番のコースだが、平和教育の一環として「第五福竜丸記念館」に立ち寄る学校もある。
焼津港のマグロ漁船「第五福竜丸」は米国によるビキニ環礁での水爆実験で被爆し、さらに被爆マグロが流通することによって消費者は大きな衝撃を受け、原水爆禁止運動がスタートした。
ちなみに、このときの被爆マグロは近江町市場にも入荷し、販売直前にストップがかかっている。ガイガーカウンターは大きく反応したそうだ。
以下は私が参加しているMLに紹介された第五福竜丸、そして久保山愛吉さん帰国の歴史的な意義を語ったアーサー・ビナードさんのインタビュー記事だが、修学旅行にに行く子どもらには是非知ってもらいたい話だ。
私は焼津にある久保山愛吉さんの墓前には行ったことがあるが、このような久保山さんの行動があったとは全く知らなかった。
米国がいまだに久保山さんの死因を放射線障害だと認めていない理由も、こんなところに起因するのかもしれない。
(以下、3月3日毎日新聞記事)
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今、平和を語る:詩人、アーサー・ビナードさん
◇水爆暴いた「福竜丸」の勇気--アーサー・ビナードさん(43)
米国が南太平洋・ビキニ環礁で行った水爆実験で、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴びて間もなく57年を迎える。中原中也賞詩人のアーサー・ビナードさん(43)は「第五福竜丸は被害者の物語ではなく、勝者の大叙情詩」と語る。3・1ビキニデーを前に、ビナードさんに聞いた。
◇「核の冬」防ぐため世界へ伝えよう
--まず、第五福竜丸との出会いから。
ビナード 英語でラッキードラゴンと呼ばれるこの船について、米国の一般市民の多くは何も知りません。だけどベン・シャーンという画家は第五福竜丸の連作を描き、うちの父親はベン・シャーンが好きだったんです。ラッキードラゴンシリーズの絵も掲載された画集がわが家にありました。幼い頃のことなので、僕は船の名前が記憶に残っている程度でした。でも、その記憶があったので、来日してから第五福竜丸のことを少し調べ、百科事典などの解説を読みました。納得できなかったですね、正直言って。
--なぜ、納得できないのですか。
ビナード 第五福竜丸は水爆という軍事機密に触れて「死の灰」を浴びたのだから、米国防総省が証拠隠滅の一環として、撃沈を考えるはずです。つまり第五福竜丸は海底に沈められる可能性が高かったのに、2週間かかって焼津に戻ってきた。消されないで生還を果たしました。これは特筆に値します。
しかし、このことに触れる解説は少なかった。23人の乗組員が放射能症に苦しみ、半年後には無線長の久保山愛吉さんが亡くなったと、みんな悲劇だけ語るわけです。かわいそうな久保山さん、気の毒な乗組員という被害者の物語、犠牲者の物語でした。そうした一面はあっても、本質はそこでないと僕は思った。本当は英雄の物語だと。
--少し説明を。
ビナード 一言でいえば、無防備の木造船が軍事大国に勝ったのです。
乗組員は「死の灰」を浴びただけでなく、その灰を持ち帰った。彼らが採取したサンプルのおかげで、水爆実験だったことが判明した。それは偶然ではなく、乗組員の知恵と行動があったからです。
経験豊かな久保山さんは即座に、米軍の軍事機密に遭遇してしまったと察知して、仲間に指示します。「船や飛行機が見えたら知らせよ。その時は焼津に無線を打って、自分たちの位置を知らせる。そうでなければ無線は打たない」。米軍に無線を傍受されたら攻撃目標にされるとわかっていたのですね。もし発見されてしまったら、焼津に無線を打って最後の抵抗として足跡を残すつもりだったのでしょう。戦時中、徴用船に乗った経験もあった久保山さんならではだと思います。生き残るために何をしなければならないか心得ていました。さらには生き証人として、証拠品の「死の灰」を持ち帰り、その結果、ビキニ事件が広く伝わり、原水爆禁止の動きが世界的規模で湧き起こったのです。
それでも核実験は繰り返され、核保有国は増えました。だから核兵器廃絶運動は行き詰まって失敗に終わったと結論づけるのは、単純すぎます。失敗ではなく、今まさに継続中なのです。つまり負けてもいないが勝ってもいない。本当に失敗したら「核の冬」がきて、人類は生き残れません。住めない地球になってしまう。そうならないための抑止力として、核兵器廃絶運動はあり、だから今後も続けていかねばならない。人類が「核の冬」を回避できているのは、第五福竜丸の乗組員の勇敢な行動があったからです。
--ベン・シャーンが描いたラッキードラゴンシリーズの絵に、ビナードさんが文を寄せて絵本にしたのが「ここが家だ--ベン・シャーンの第五福竜丸」(集英社、07年に日本絵本賞)です。ビナードさんはこう書いて警告しました。「ひとびとは 原水爆を なくそうと 動きだした。けれど あたらしい 原水爆を つくって いつか つかおうと かんがえる ひとたちもいる」
ビナード 核兵器がなぜなくならないのか、とよく聞かれますが、答えは簡単です。もうかるからです。こんなおいしい商売は他にありません。米国防総省は核兵器をなくすことなど全く考えていないはずです。米政府は「国防のために必要だ」という呪文を唱えて、国民をだまし続ける魂胆でしょう。
チェンジを掲げて当選したオバマ大統領だけど、一番チェンジが必要だった国防総省に関しては、一切チェンジできませんでした。大統領でも国防総省のトップの首を切ることはできないようです。オバマ大統領は本気で核兵器を手放そうとは考えていないが、核兵器が使われたら困るなと思っているはず。だから意地悪くみれば、プラハ演説はテロ対策の一つの陽動作戦だったのではないかといえる。
--核廃絶の主役は。
ビナード 世界の市民です。国防総省も防衛省も予想できない市民レベルの地道な草の根運動を工夫しながら繰り広げていき、世界の核肯定論に小さな穴をあけるのです。僕は「蟻(あり)の一穴」という言葉が好きだけど、蟻みたいに働いて、国防のウソで固めた堤防に、核兵器でぼろもうけしている軍需産業のPRの堤防に、小さな穴をあける。巨大な組織は、そういう地道な真実の戦いに弱いはずです。
日本にいる僕らは第五福竜丸というレンズを通して核兵器を見つめることができる。これからは他国の言語でも、第五福竜丸事件のレンズを磨いていくべきです。勝利の物語として、その本質を語っていけば、大叙事詩並みのインパクトが伝わる可能性は十分ある。そうなれば世界の人たちの意識に影響します。
--心がけることは。
ビナード 一般市民は、軍事や国際政治に精通しているわけではないので、専門家の話に負けることがあります。専門家が集まって作業部会を組むと、それなりに説得力があったりする。しかしノーベル賞物理学者のスティーブン・ワインバーグは「専門家」をこう定義づけました。「専門家とは、小さな間違いを器用に避けながらも大きな間違いへと進んでいく人」。軍の政策を軍の専門家に任せると、僕らは「核の冬」に向かっていくのです。経済も経済学者に任せてはいけない、政治を政治家に任せたら大変なことになる。そういう意識を持って、専門家たちがコントロールする領域にも、市民の僕らが突っ込んでいく必要があるのです。(専門編集委員)
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■人物略歴
◇Arthur Binard
1967年、米・ミシガン州生まれ。ニューヨーク州コルゲート大学で英米文学を学び卒業後の90年に来日、日本語で詩作を始める。01年に詩集「釣り上げては」で中原中也賞、08年に詩集「左右の安全」で山本健吉文学賞を受賞。文化放送のコメンテーターとしても活躍し、著書多数。近著にエッセー「亜米利加ニモ負ケズ」(日本経済新聞出版)。
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