領家肇さんは珠洲警察署の元警備課長。
「元」と言ってもずいぶん古く、いまから24年前の1989年、珠洲原発に反対する私たちが高屋での30日間の事前調査阻止行動、40日間の市役所座り込みをやっていた当時の警備課長である。
座り込みに参加した人、あるいは当時、何回となくおこなっていたデモや集会に参加していた人なら名前はしらなくても顔なら覚えているという人も多いのではないか。背が高くて若くて男前、同じく当時警備課にいていつも行動を共にしていた出口さんがいかにも珠洲のおじさんという雰囲気で体型も正反対ということもあり(失礼)、なおさら垢抜けした領家さん振る舞いが目立っていた。
多分、私が最初に会ったのは高屋での阻止行動のときである。領家さんは連日高屋に張り付き、関電社員や関電興業の従業員と反対派との間のトラブルを警戒し、警備していた。
その後、市役所座り込みを開始してからは、私たちがいる3階会議室の廊下を挟んだ向かい、市長秘書室に張り付き、私たちの動きを監視するのが領家さんの仕事である。
連日の朝夕、庁舎管理規則に基づき退去を命じるという警告を受けながら40日間居座ったわけだが、私たちもいつ強制排除されるかわからない中、私は頻繁に領家さんとも接触し、警察の動きにも注意を払ってきた。
警備責任者としては、座り込みの人数の増減や中心人物はもちろんのこと、次に私たちがどんな行動にでるか、あるいは全国からどんな人が応援に駆け付けているかなど、様々な情報を収集していたはずである。
座り込みは市外、県外の多くの方の支援を受けたが、あくまで中心は蛸島漁協の皆さんなど地元の人たち。そして大義名分は申し入れの途中で「関電と話してみる」といって姿を隠した林幹人市長の帰りを待ち続けるということだった。
関電が事前調査の一時中断を発表してからも、私たちはいつ再開されるかわからない、市長と会うまでは座り込みの解除はできないという方針だった。
座り込んの大義名分は反対派にあり、ということで踏ん張っていた私たちだったが、座り込みが30日を超えたあたりから市内の世論が微妙に変化しはじめた。そのことを最初に指摘してくれたのが領家さんだった。裏を返せば機動隊導入のタイミングを探り始めたということだと私は受け止めた。
6月30日、市議会最終日、そして午後には中西知事、杉山副知事の高屋入りするこのタイミングで機動隊導入の準備が進められていた。この日の午前中、私たちは市役所を自主退去した。
結果的に40日間、強制排除されなかったのは領家さんの現場の状況分析も大きかったのではないかと私は思っている。
その後、領家さんは移動になり長く会う機会がなかった。久しぶりに会ったのは6~7年前くらいだったか、領家さんが金沢中署の警備課長をしているときだった。
「わしゃあのとき、あんたを逮捕しようと思っとったんや」という話にはじまり昔話に花を咲かせ、拙著「珠洲原発阻止へのあゆみ」を買ってもらった。せっかくだから本に名前を書いてくれと頼まれ、ミミズが這ったような字を書いたところ「もっと名前の練習した方がいいぞ」と笑われたが、それが最後の会話となってしまった。
その後、生活安全部や警察学校の副校長に移動したことは知っていた。さらに要職を勤めているものと思っていたところ、今日の新聞の訃報欄である。数年前から病魔に侵されていたとのこと。
「珠洲原発阻止へのあゆみ」では職務上、領家さんのことは一切書いていないし、これからも書けないが、89年の珠洲原発の最大のヤマ場の中、領家さんとの思い出がたくさん頭の中に残っている。
訃報を私に入れてくれたのは、これまた当時、珠洲に張り付いて取材していた某テレビ局の記者をしていたO氏である。それぞれ立場は異にしながらも、あの時間と空間を共有したどこか同窓会的な関係が続いている。
領家肇さん55歳。心からご冥福を祈りたい。
「元」と言ってもずいぶん古く、いまから24年前の1989年、珠洲原発に反対する私たちが高屋での30日間の事前調査阻止行動、40日間の市役所座り込みをやっていた当時の警備課長である。
座り込みに参加した人、あるいは当時、何回となくおこなっていたデモや集会に参加していた人なら名前はしらなくても顔なら覚えているという人も多いのではないか。背が高くて若くて男前、同じく当時警備課にいていつも行動を共にしていた出口さんがいかにも珠洲のおじさんという雰囲気で体型も正反対ということもあり(失礼)、なおさら垢抜けした領家さん振る舞いが目立っていた。
多分、私が最初に会ったのは高屋での阻止行動のときである。領家さんは連日高屋に張り付き、関電社員や関電興業の従業員と反対派との間のトラブルを警戒し、警備していた。
その後、市役所座り込みを開始してからは、私たちがいる3階会議室の廊下を挟んだ向かい、市長秘書室に張り付き、私たちの動きを監視するのが領家さんの仕事である。
連日の朝夕、庁舎管理規則に基づき退去を命じるという警告を受けながら40日間居座ったわけだが、私たちもいつ強制排除されるかわからない中、私は頻繁に領家さんとも接触し、警察の動きにも注意を払ってきた。
警備責任者としては、座り込みの人数の増減や中心人物はもちろんのこと、次に私たちがどんな行動にでるか、あるいは全国からどんな人が応援に駆け付けているかなど、様々な情報を収集していたはずである。
座り込みは市外、県外の多くの方の支援を受けたが、あくまで中心は蛸島漁協の皆さんなど地元の人たち。そして大義名分は申し入れの途中で「関電と話してみる」といって姿を隠した林幹人市長の帰りを待ち続けるということだった。
関電が事前調査の一時中断を発表してからも、私たちはいつ再開されるかわからない、市長と会うまでは座り込みの解除はできないという方針だった。
座り込んの大義名分は反対派にあり、ということで踏ん張っていた私たちだったが、座り込みが30日を超えたあたりから市内の世論が微妙に変化しはじめた。そのことを最初に指摘してくれたのが領家さんだった。裏を返せば機動隊導入のタイミングを探り始めたということだと私は受け止めた。
6月30日、市議会最終日、そして午後には中西知事、杉山副知事の高屋入りするこのタイミングで機動隊導入の準備が進められていた。この日の午前中、私たちは市役所を自主退去した。
結果的に40日間、強制排除されなかったのは領家さんの現場の状況分析も大きかったのではないかと私は思っている。
その後、領家さんは移動になり長く会う機会がなかった。久しぶりに会ったのは6~7年前くらいだったか、領家さんが金沢中署の警備課長をしているときだった。
「わしゃあのとき、あんたを逮捕しようと思っとったんや」という話にはじまり昔話に花を咲かせ、拙著「珠洲原発阻止へのあゆみ」を買ってもらった。せっかくだから本に名前を書いてくれと頼まれ、ミミズが這ったような字を書いたところ「もっと名前の練習した方がいいぞ」と笑われたが、それが最後の会話となってしまった。
その後、生活安全部や警察学校の副校長に移動したことは知っていた。さらに要職を勤めているものと思っていたところ、今日の新聞の訃報欄である。数年前から病魔に侵されていたとのこと。
「珠洲原発阻止へのあゆみ」では職務上、領家さんのことは一切書いていないし、これからも書けないが、89年の珠洲原発の最大のヤマ場の中、領家さんとの思い出がたくさん頭の中に残っている。
訃報を私に入れてくれたのは、これまた当時、珠洲に張り付いて取材していた某テレビ局の記者をしていたO氏である。それぞれ立場は異にしながらも、あの時間と空間を共有したどこか同窓会的な関係が続いている。
領家肇さん55歳。心からご冥福を祈りたい。
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