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朝日新聞4月9日
新小学校1年生に将来就きたい職業を聞いた結果が昨日の朝日新聞に紹介されている。
男の子のスポーツ選手、女の子のケーキ屋さんは以前から上位だったと思うが、今年の特徴として女の子の保育士人気が上昇し、逆に先生人気が過去最低になったとのこと。
先生の人気低下について少しだけ考えてみたい。
小1対象の調査だから、子どもたちが学校生活の中で先生の仕事を見てきて、なりたい魅力を感じないというわけではない。
考えられる理由として
1.親が先生をしている子にとって、先生という職業に魅力がなくなっている。
以前は親が先生だから子どもも先生になったという人が結構いたが、いまは逆だそうだ。帰りが夜の9時、10時が当たり前、休日も家にいなくて学校いったり、学校関係の行事で不在で、子どもにとっては遊んでももらえない。親の姿を見て、こんな家庭を犠牲にする仕事はいやということで、最も確率が高い1票だった先生の子どもからの人気がダウンした。
2.小1の子どもの夢だから、身近な存在かテレビなどで見る職業、あるいは親が「大きなったら○○になったらいいよ」などと勧める職業が上位に来ると思われる。そういう意味で、親は医師や学者は勧めても学校の先生は勧めていなのではないか。
勧めない理由は、1の勤務条件や待遇などもあるかもしれないが、やはり親自身が人生の師ともいえる「えらい先生」にあっておらず、先生という職業を魅力的な職業とみていないのではないかと思う。
ここから先は神戸女学院大の内田樹先生(専門はフランス現代思想、武道家でもある)が中高校生向けに書いた「先生はえらい」(ちくまプリマ―新書)の紹介のようなものだが、内田先生は最近の若い人が「えらい先生」に出会っていないのは「えらい先生」がいなくなったわけでもないし、先生運が悪いわけでもないと言う。
はじめから「えらい先生」がいるとか、「えらい先生」の定義はこれこれである、といった考え方自体が間違いで、「えらい先生」は学ぶ側に主体性があり、その人が「えらい」と思った人が「えらい先生」だという。
内田先生の書いた他の本で、最近、小学校の授業で「先生、これを勉強して、将来どんな役に立つんですか?」という質問をする子がいると確か紹介されていたが、果たしてこの子は「えらい先生」に出会えるだろうか。
内田先生はわかりやすい例えを紹介している。
自動車教習所の先生からは、生涯にわたって役立つ自動車運転の技術や知識を学ぶが、残念ながら教習所の先生は、どんなに人格的に立派でも、あるいは運転技術が優れていても、人生の師と仰がれることはない。
学校教育に、あるいは学校の先生に損得勘定でそういう知識や技能を授けてほしいと望んでいる人は永遠に「えらい先生」と出会えることはない。
自ら問いを発する「学びの主体性」こそが問われているのだが、まさに今の教育はボタンの掛け違いで、学ぶ側が先生を査定することを「学ぶ側の主体性」だと考えたことが間違いのはじまりだと鋭く指摘している。
若い人に限らず、世の中全体が学びの主体性を回復していかない限り、先生の魅力は低下の一途、「せんせいになりたい」という子どもたちも増えないんじゃないかなぁ。
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