原ノ町朝日座は、大正12年(1923)7月2日に開館した、木造建築の芝居小屋兼映画館である。建て主は12人の旦那衆で旧名「旭座」は主に芝居興行が主だった。ハイ!みんぽう11月号より。
無声時代の映画は、専属の楽師たちが呼び込みまでやったと。田舎では、庭の広いところで興行師が旗さお2本にスクリーンを張った青空劇場で、手回しの蓄音機で呼び込みをしていた。
建築はアジア一高さの原町無線塔(大正10年、今は無用となって取り壊し原町道の駅の傍にモニュメントが立っている)建設と同じころで、歌舞伎や浪曲など、そして映画館として親しまれ、戦後個人経営となった。
テレビに押されて、平成3年閉館、建築者の孫に買い取られ生き残った。生涯学習まちづくり講座を通して「朝日座を楽しむ会」の誕生で、アニメ上映など、南相馬に根差した文化発信の場所となった。
我が町にも、海盛座など2つの映画館があったが、いずれも解体されている。矢吹町でも震災で全壊となって解体の運命にあったが、大木さんらによって、半世紀ぶりに屋型医院が大正ロマン館として再会館している。
無声時代の映画は、専属の楽師たちが呼び込みまでやったと。田舎では、庭の広いところで興行師が旗さお2本にスクリーンを張った青空劇場で、手回しの蓄音機で呼び込みをしていた。
建築はアジア一高さの原町無線塔(大正10年、今は無用となって取り壊し原町道の駅の傍にモニュメントが立っている)建設と同じころで、歌舞伎や浪曲など、そして映画館として親しまれ、戦後個人経営となった。
テレビに押されて、平成3年閉館、建築者の孫に買い取られ生き残った。生涯学習まちづくり講座を通して「朝日座を楽しむ会」の誕生で、アニメ上映など、南相馬に根差した文化発信の場所となった。
我が町にも、海盛座など2つの映画館があったが、いずれも解体されている。矢吹町でも震災で全壊となって解体の運命にあったが、大木さんらによって、半世紀ぶりに屋型医院が大正ロマン館として再会館している。