5/5(火) 今日はこどもの日で祝日、昼まで家でのんびりと過ごす。朝飯は、昨夜作った野菜スープ、竹輪&牛蒡天にチリメンジャコと郷里の産物、これも残り物で「鯖姿寿司」をフライパンで炙り焼きしたものなど。こういうメニューだと喉が渇く、缶ビールの出番だ。休日の朝の悪しき習慣が甦ってしまった。
そんな朝食の後、古い文庫本を読みながら暫し寛ぎのひと時を過ごす。家人は、昨日につづいて仕事に出掛けた。貧乏暇なしとは、家の山の神のことか?亭主はゴロゴロしながら本を捲り『行ってらっしゃい~』と呑気である。
古い文庫本は「池波正太郎」のエッセィである。昨夕、YOSHIOと人形町のスタンディングBARで軽く飲み、その帰りに時間つぶし用に買ったのだが。どう考えても、この本は過去に二度は読んでいる。著者が、昭和四十年代に諸方に発表したものを集めたエッセィなのだ。
本は池波正太郎が、作家として世に出るまでのことや、売れっ子作家として地方に出掛けた取材旅行のことなどを記している。氏が1990年5月、67歳で亡くなり既に四半世紀となったが、亡くなる二十年も前の物語。作家が存命であれば、私の母と同年である。
その作家が、戦後都庁に勤めながら脚本を書き、そして時代小説家になっていく訳だが・・・。作家が師と仰ぎ教えを乞うたのが「長谷川 伸」であったと書いている。また、編集者の話が出てくる。そんな下りを読みながら、遥か昔のことが突然に甦った。
それは大学三年時の、ある日の一コマである。
それまで住んでいた、東十条駅に程近く踏み切りの線路際にあった三畳一間のボロアパート「楽園荘」から、中野駅に近い新築アパート「小林荘」に移ってからのことである。
アパートのオーナーは、小林さんと云う紳士であった。アパートは二階建てで、四畳半の部屋が上・下5部屋づつあったと思う。他に管理人夫妻が住む部屋が別にあった。このアパートでの思ひでは、熊のような体型と禿頭で顎鬚モジャモジャの管理人のオッサン。このオッサンは、昼夜を問わずアパートの内外を熊のようにほっき歩いたこと。
高校時代の後輩が剣道の試合で上京し、何処で待ち合わせたか記憶がないがアパートに案内した。要は何処かで飯を喰わす金もなく、自分の部屋の小さな電気釜で飯を炊き、それを喰って貰った。救いは、それから数年経っても「あの時の飯の美味さは、忘れられません」と、言ってくれたことだ・・・。この時も、管理人の熊オヤジは窓の外、廊下とうろついていた。
前置きが長くなったが、甦った記憶とはそんな話じゃない。作家のエッセィが発端で突然に甦った記憶なのだから。このアパートの持ち主、紳士の小林さんのことだ。大家さんの住いは別にあったので、時折しか顔を合す機会はなかった。
大学三年の秋であったろう、大家さんと久々に顔を合した。と、「就職はどうするの?どんな会社を希望してるの?」と訊かれた。まさかそんな質問をされようとは思ってもいなかったので、ちょっと驚いた・・・。正直なところ、何の考えもなかったに近いが。
『出来ればマスコミ関係、出版系の仕事で編集者になれると良いんですが』と、高望みを応えた。すると「それじゃ知り合いに雑誌社の人がいるし、作家の井上靖さんともご縁があるので紹介しますよ。何とかなるでしょう。」と言われた。
と、以上のような会話を思いだした次第。これが ―甦る記憶― と云うやつだ。で、その後の展開が気になるでしょう?
実は、若干の期待を持ちつつも小林アパートを出たのが四年生になる春のこと。一年先輩の岡宗さんが卒業し、それまで先輩の友人が住んでいた高円寺南5丁目の安達さん宅の下宿が良いよと言われ、引っ越したのである。
あの髭面の熊オヤジが、四六時中アパートの内外をうろつくのが、なんとも気障りになっていたのだ。我慢が出来なくなっていた所為である。
それにしても、一介の住人に過ぎない学生に、親切な声を掛けてくれたアパートのオーナーの親切を忘れることができないでいた。実は数年まえのことだが、中野駅に降りたついでに小林荘を訪ねた。中野駅南口から線路沿いに東中野方向に戻る、桃園小学校の先を左折して右に曲がってすぐのはずだが・・・。
すっかり様変わりをし、アパートらしき建物は一棟もない。周りは戸建住宅ばかりであった。ここら辺りにのはずと、思える場所はあるが特定は出来なかった。あれから、半世紀に近い年月が流れたのだ・・・。