オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

「奈加野」にて・・・

2018-12-21 | Weblog

12/21(金) 早や週末の金曜日。事務所にいるのも残り五日となった。愈々カウントダウンである。昨夜、渋谷・宇田川町の馴染の店「奈加野」にて、かつて職場を同じくした友人たちと懇談した。このメンバーで会うのはいつの日以来か、愛媛県は久万高原町に移住したKATUTA君が上京した昨年?以来か。

                         

職場が大所帯だった時代から、民営化と会社組織の大きな見直しの波があり、我らが所属した課は縮小に縮小を重ねていた。そんな時代、三十年余も前に日比谷の古めかしくも威容のあるビルの一室で一緒の時を過ごした仲間。そう、未だ仲間とか云う言葉が普通に通用する時代であった。

主査から、その見識と誠実・卓越した力量を評価されて課長に抜擢された先輩のMASUDAさん、同郷で妙な可笑しさと愛嬌を発揮する隣の担当主査だったIKEDA氏、そしてMASUDAさんの部下で横須賀出身のトッポイながらもよく働いたTERASHIMA君との四人であった。

                    

IKEDA氏は三年まえになるか、蜘蛛幕下出血で入院した。MASUDAさんと二人で多摩の駅から遠い病院に見舞ったときは、まだ言葉がはっきりしなかったが、すっかり回復して酒を飲んでオヤジギャグを飛ばしている。

MASUDA先輩には、T物産とのユニホームの仕事や情報誌の取材とお世話になりっぱなしだた。緑内障で視野に不自由をきたしていたが、今度は左耳の聞こえがと・・・。アルコールを口にせず、ウーロン茶だけで二時間ほどを過ごした。

相変わらず、口八丁手八丁のTERASHIMA君は元気一杯。昔のいたずらをバラスとプレッシャーをかけると「それはなしで」と・・・・。神職になるかもしれないと、意外なことを言うのであった。

皆、それぞれに齢を重ねているはずだが、あの時代のままの気分であった。

よき時を過ごして、一次会で切りあげて解散した。「奈加野」も賑わっており、先ずは安心である。

この夜の帰宅は、なんと九時前と超はやであった。就寝も早かった・・・が、なんと目覚めると零時半ではないか。睡眠充分の感であったが、睡眠時間は短い。このまま寝付けずにいた、気が付けば明け方になっていた。

 

今朝の弁当は「焼き肉」。ふるさと納税で送られてきた土佐あかうしの焼肉用肉を焼いて、焼肉弁当風にした。他には「春雨のサラダ」と「茄子味噌炒め」に、定番の卵焼きである。

              

自分用の朝食は、焼き肉の味見とゆで卵であった。グレープフルーツを買っておけばよかったが・・・・。

 

午後遅くに、五反田の病院に入院している知人の見舞いに行く。OB会事務局長と一緒するが、二十代半ばに両国は震災記念堂の隣にあった職場で同僚であった。肺がんで入院と知ったので同行することにした次第。見舞いの後は、五反田で一杯となろう。その後、人形町に戻れれば八時頃かな?。金曜日だし、戻るしかないか・・・。

 

 

 

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