オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

深夜の目覚め・・・

2018-12-26 | Weblog

12/26(水) 昨夜も渋谷「奈加野」で、友人のOKAZAKI氏と二人だけの忘年会。その前にスマホのWi_HIがオンできないので、学芸大学駅前のドコモショップに立ち寄った。一昨日に予約をしたので直ぐに対応してくれたが・・・、一時間以上を要した挙句「故障ですね。修理に出すより買い換えた方がお得ですよ」と、言われた。

買い替えの件は年末に改めてということにし、渋谷に向かった。約束の時間より30分の遅刻。土曜日のTUGAWAさんとの待ち合わせといい、奈加野での待ち合わせは鬼門のようだ。店に着くと、OKAZAKI氏は店主を相手にゴルフ談義をしていた。お酒に弱い氏は、専ら食べる。焼きおにぎりや鍋を、年末のあいさつ回りで腹が減ったと食べた。その喰いっぷりは中々のものである。

                        

店が込み合ってきた八時過ぎに退散した。渋谷の人の多さは異常じゃないか?と思うくらいであった。人形町に戻らずそのまま帰宅したが、家の灯りは点いてなかった。今日、金沢から家人の妹が来たので、隣駅に住む末の妹と連れ立って食事に行って帰っていないのだ。

                           

金沢の妹は今年は特に辛いことがあった、息抜きに来ると聞いていたが・・・。来れて良かった。俺も飯の作り甲斐があると云うものだ。

稀なる早い帰宅。部屋に籠って帰りに買った本を読んで過ごし、何時の間にか眠りについていた。目覚めるとCDの演歌が流れていた。一体何時なんだ?と、手元のスマホで時間を見た。なんと、深夜の三時前であった。こうなると眠れない…、本読み、タバコを吸い、灯りを消しと何度か繰り返す。よくあることだが・・・眠れないものは眠れない。だったら眠ろうとしなければいいのだが・・・・。

明け方にウツラウツラと寝たようだが、面白くもない夢をみていた。結局、起床は七時になった。今日の弁当メニューは、眠れぬ間に蒲団の中で考えていた。台所に立って、それを実行するだけである。

「肉ジャガ」「小松菜の煮浸し」「ギンダラ&鮭焼き」「胡瓜の塩麹もみ」、そんな処が今日のメニューである。ギンダラは先日に漬けた奴の中から、味見用に小ぶりを焼く。小松菜の煮浸しは、油揚げと厚揚げを一緒に煮た。味噌汁も作ったが、具は蕪とその葉だけである。

                 

サクサクと今日の弁当を作り終えてから、テーブルに就いて飯が出るの待っている義母・妹に供した次第。長女と孫のSORAが、インフルエンザに罹った。昨日から二人とも休んでいる。今日の弁当は一つだけであった。

 

 -今年を振り返ると・・・-

ふり返るといろんなことがあった。書けること書けないこと、人生いろいろだが、私的には「会社を去る」ことであろうか。これに起因して、いろんなことがあると云えよう。

二~三年前から会社の将来、行く末をどうすればいいか、漠然とはながらも考えていた。従業員への承継、解散、第三者への譲渡など。最終的には、前二つは環境が整ってないと判断した。残る道は、自分が責任を持って経営をつづけるか、つづけられたとしても数年、残る譲渡であった。

十数年を経過したことによる気力・体力の減退に加えて、能力の欠如は如何ともし難く、このままでは従業員の成長とお客さんへの貢献が覚束なくなると痛切に感じるようになっていた。そんあことから、企業譲渡や承継に関するセミナーなどに参加するようにした。

昨年の師走、今時分のことだが。後輩のYが月例の飲みにやってきた。Yとは、彼が入社した頃から剣道を通じた関係であり、かつ私が東京支社の係長時代の部下でもあった。数年前の彼の退職に際しては、先輩を通じて再就職先を斡旋してもらっている。

そんな彼と飲みながら『君んとこの会社はいろなとこを買収してるようね、俺ンとこも買わないか』と、冗談半分で言った。「わかりました、ちょっと話してみます」とのことになった。彼が非常勤で勤務する会社は、M&Aで成長している会社であることを承知していた。

そんなことはすっかり忘れていたが、連絡があり今年、1月下旬にYの上司にあたる人と会うことになった。M&A担当でないが、その部門に繋ぐとのことになり、2月になってから話が進み始めたのである。瓢箪から駒とは、このことであろうか。

まさかと云う展開であったが、流れに乗ることにしたのだ。こちらの条件は、三点。会社の継続と発展、従業員の雇用の継続と成長、顧客に迷惑を掛けない。であった。向こうは、収支のプラスと成長の可能性、自社業務とのアライアンスなどであったろう。

随分たくさんのの資料を用意し、ヒアリングに何度か応じ、会計事務所の調査とすすみ、最終的な合意文書を結んだのは7月の初めであった。5月下旬には概ねの方針は固まっていた。そして、会社の期末となる7月末で我等現役員は辞任、8月1日に全株式の譲渡をした。

事務引継ぎなどで今月末まで席を置かざるを得なかったが、なるべ早く身軽になりたいと思っていた。

一方で、郷里の母が五月下旬から膀胱がんの疑いで入院した。田舎と行き帰りしながら売却交渉を進める破目になった。会社の経営から離れたら、郷里に戻って母を見送るまで暮らすつもりでいたのだが・・・・。

母は、膀胱がんとの診断が正式にあり、隣町の病院に転院した。幸いなことに姪が事務職として働いており、なにかと面倒を見てくれた。1年や2年はもつだろと思っていたが、会社の整理が終わるの待っていたかのように8月30日の午前10時46分に臨終した。死に目に立ち会えなかったが、前々日に顔をみていた。

会社の譲渡が済、つづいて母の葬儀、四十九日法要。11月は亡父の七回忌。遡ると2月7日に従姉が亡くなった。3月には福井市の家人の実家の整理があった。

8月以降は会社を離れたことの、恩人たちへの挨拶。鬼籍に入られた方が多く、金沢~東戸塚~狛江~横須賀~伊豆大川と墓参がつづいた。元気な札幌の友人たちに会うことも出来た。

何かと忙しそうだが、過ぎてしまえば何のことはない。ただ、スケジュール調整だけは苦慮した。が、それも何とか描いたようになるものであった。

ざっくりではあるが、会社の譲渡、母の入院から逝去、この二つを中心に色んなことが有ったような一年である。

 

 

 

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