オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

平成最後の週末・・・

2019-04-26 | Weblog

4/26(金) 四月最後の週末、金曜日。平成と云う年号では最後の金曜日&週末になるが、だからなんなんだ!と、言われりゃそのとうりで何んの意味もないか・・・。昨日は最後の木曜日、明日は最後の土曜日と云う次第だから・・・。

大方の勤め人は明日から大型連休に入り、日頃のプレッシャーや疲れから心身を解き放ちて英気を養うことであろうが、こっちは日々が連休だ。頭も体も解き放ちならぬ溶けたような状態だが、それでも十連休などと聞くと、中小零細の事業者の収支が他人事ながら心配する。零細会社の経営に携わってきた貧乏根性が未だ抜けない由にか!。

斯様なことはさて置き、今朝の貧乏オアヤジの弁当について紹介する。

今朝は牛ステーキ(豪華?じゃなくて安いオージービーフさ)と、ホタテ&ホウレン草・シメジのバターソテー、卵焼きに辛明太子と云う塩梅である。炊き立ての飯に明太子はよく合うが、昼にはどうかなと思いきや、弁当を食す家人と長女からは絶賛された。

          

この辛明太子、四月から取り始めた〒パックのふるさと便で届いたものだが、期待もしていなかったが好評でよかった。田舎の〒局長から勧められて初めて取り始めた次第だが。何しろ〒の局舎は、母が亡くなってからは、僅かな年金しかないであろう妹の名義にしたが賃料を頂いている。出来うる限りの協力は吝かでない。

余談が長くなったが、今日の弁当は旨そうだ!特にホタテ&ホウレン草が良い。ホタテが極上品(頂きものだが)の上に、バターソテーしたホウレン草とシメジにマッチしている。自画自賛!。

          

かくして、二人分の弁当を作り終えて今朝の遊びが終わった。

            

が、今夕は五反田の「蔵屋」なるご亭主と女将さんで切り盛りする居酒屋にてUSUI老と一杯やり、そこから「セイジュ会」のために人形町に行く。今夜は3~4軒廻ることになりそうだ・・・。

「蔵屋」は五反田・有楽街のはずれ角に在る、狭くて小さな古家の店ながら、ご亭主の作る肴が絶品ながら安い。以前は在籍した古巣で取引先でもある某社の面々とこの店でよく飲んだ。USUI老もこの店の常連だったが、先週に久しぶりに顔をだしたら女将から私の話が出たそうだ。となれば顔を出すしかないが、人気店なので予約をしないと危ないと、老が今夕と決めた次第。

明日から十連休みだ?今夜はゆっくりと遊ぼう!。 こんなに顔にならぬ程度に!。

 

 — 思い出酒場 ④ —

このテーマでは、お世話になったり社会人としての在り方を学んだ酒場の思ひでを記している。お店や経営者がなくなり、或るいは音信が途絶えた方との酒場での思い出である。前の三店は年若の頃からの順であったが、そういう点から、今回は、どの店の思い出を記すか迷った・・・。店・人との出会いは前後するが、今回は新橋に在った店「パンドラ」について・・・。

その店の女将(ママ)の名を、私はオタカさんと呼んでいた。未だ新橋・烏森口の西側に戦後まもなく建ったような間口1~2間の小さな居酒屋が林立する一角があった。当時の上司に連れられて、常連らしき一軒の店に行ったのが知り合うきっかけであった。

オタカさんは、その店のオーナーの知り合いとかで手伝いに入っていたと、後に知るが。この辺り一帯を区画整理(地上げ)する話が進んでおり、その保証金目当てで店は続いていた。未だバブル序章の頃であったろう。

当時の上司二人がお酒大好きな方で、飲みにでるのはいいが企画担当であった私は何度か付き合う運命にあった。飲んで帰ってくれればいいが、会社に戻って泊まることが間々。そんなときは私も会社に戻り、上司の布団を用意してから終電かタクシーで帰宅する。最後は馬鹿らしくなって付き合うのを止したが・・・。

初めてその店に行ってから2~3年経っても未だ店みせは残っていた。が、私は遠ざかったままであった。通信局で係長をやり本社に戻ってから辺り一帯の店が立ち退きはじめた頃、近場で飲んだ二次会に、久々に顔を出したら店はオタカさんが一人でYAやっていた。間もなく立ち退き、烏森口でスナックを始めるとのことだった。

その店が「パンドラ」という名のスナックだった。何故か分らぬがオタカさんは私を気に入ってくれていたようだ。当時の上司に私を連れてきてと言ってたそうだが、そんなことは聞いてないし、居酒屋で飲む習慣もなかった頃だ。

「パンドラ」には当時の部下や知り合いを連れて顔を出すようになった。何時も学割?にしてくれていたようだ。在籍した会社の株主総会後の打ち上げに、社長や取り巻きが使ったこともあったようだが、店は繁盛しなかった。結局、烏森小学校の裏手に店を小さくして移った。前の店の半分以下のスペースになっていた。

私の当時の勤務場所は日比谷、日比谷から新橋は指呼の間なので友人や部下を連れて飲みに行くことが多かった。当時の手下たちもお世話になったことだろう。すでにバブルが始まっていたのだろう、こっちは、銀座・赤坂・六本木と飲み歩くに忙しかった。お財布の方も忙しかった時代である。

私は品川に転勤となり、パンドラに顔出す機会が少なくなった。そして間もなく、パンドラは店の幕を下ろした。オタカさんは、店の常連だった客の紹介でデパートの派遣定員になったと連絡を貰い、一度だけそのデパート日本橋・高島屋に訪ねたことがある。元気そうにしていたが、その後、音信は途絶えたままになった 。

店をやるのは難しいものさ、そんな例を幾つもみているが・・・。随分と気にかけてもらい、よくしてもらった。なんの手助けも応援もできなかったことが残念である。元気にして生きていてほしいと願っている。

 客の姿がない折に聞くのは「ARIさんはサラリーマンじゃない方がいいよ、自分で商売やった方がいいよ」の言葉が口癖のように出た。そんな言葉を聞いてから、随分と経って自分で会社をやってみたが大したことはなかった、出来なかったよ・・・。

『オタカさんの眼鏡違いじゃないかい』と、会えば云えるのに・・・。ついぞ、パンドラの箱を開けることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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