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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

天国、それは本当にあるのか? 第20回

2016年08月05日 | 日記

2.結論

 聖書は救われた人たちが受ける新しい世界を「天にあるふるさと」と呼びます(ヘブル11:14-16)。人間の言語では、義人たちの受ける報いの素晴らしさを表現することは出来ません。有限な人間の頭脳では、誰も神様が用意しておられる楽園の栄光を語ることは出来ないのです。

 「しかし、聖書に書いてあるとおり、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられたのである」(Ⅰコリント 2:9)。私たちが受ける将来の報いを、あまりにも物質的なものとして考えることをためらって、ただ霊的な祝福としてだけ理解しようとする人がいますが、イエス様は確実に弟子たちに、「あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ14:2)と言われ、そこが具体的な場所であり、私たちが目で見、手で触れることの出来る所であることを約束されました。

 イエス様が準備された天のふるさとで、真の羊飼いとなられたイエス様が、羊の群れである私たちを生命の泉へと案内してくださいます。聖書によれば、生命の木は毎月実を実らせ、その葉は万国民に活力を与えます。水晶のように輝く命の水の川は、どこまでも伸びており、その川岸にある木々は、救われた主の民が通る純金の道の上に影を落とし、広い平原の果てには緑の丘があり、神様の山々が美しく広がっています。その平和な光景の中に、地上では旅人であり寄留者であった神様の民は、ふるさとの家を見つけることでしょう。

神様によって新しくされた世界には、もはや苦痛は存在しません。そこには別れも、涙も、葬列も悲しみの痕跡もありません。「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録 21:4)。「そこに住む者のうちには、わたしは病気だと言う者はなく、そこに住む民はその罪がゆるされる」(イザヤ 33:24)。

 神様の城には“夜”がありません。誰も休息を必要としたり、望んだりもしません。そこでは神様のみ心に従い、その方の御名を称えることに、まったく疲れを感じません。新鮮で愉快な朝の気分をいつでも感じるでしょう。「夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22:5)。

明るすぎず暗すぎない、ちょうどよい光が太陽光線の代わりとなり、神様と小羊の栄光が聖なる都を絶えず照らすのです。救いを受けた人々は、いつも昼のような光の中で過ごすことになります。

 神様の民は、いまや父である神様とキリストと共に、自由に行き来する特権を得るのです。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」(Ⅰコリ 13:12)のですが、神様と私たちの間を隔てていた垂れ幕なしに、直接神様と対面すようになるのです。私たちは、主の前に立ち、その方の顔の栄光を、直接見ることができるのです。主が彼らを知っておられるように、救われた人たちも主を知るようになるのです。

 神様ご自身が、人の心の中に植え付けて下さった愛と思いやりは、そこで最も良く発揮されます。罪を犯したことのない天使たちとの純潔な交流、その服を小羊の血で洗い白くした、それぞれの時代の忠実な神様の聖徒たちとの会話、地上で別れた愛する者たちとの再会、そして、私たちのために十字架にかかって下さった主イエス様とお目にかかる喜び、このような永遠の重い栄光に比べるならば、地上のどんな困難も、迫害も、一瞬の軽い経験に過ぎないのです。