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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

血の花婿 デイビット・カン説教より  第4回

2016年08月10日 | 日記

真理を実行する

 

さて、続きます。

「さもないと、あなたがたの悪しき行いのために/わたしの怒りが火のように発して燃え、これを消す者はない」。

皆さん、モーセがミデアンの地からエジプトに向かっている途中に、神様の天使が現れました。ある人は、モーセが突然死にそうな病気にかかったのではないかと解説する人もいますが、そうであってもなくても、神様はモーセを殺そうとなさいました。モーセは、「ああ、主を怒らせてしまった。主の命令のうちの何かを破っていた」ということを悟りました。何か、とても恐ろしい経験をしたのですね。

その時、妻の言葉に負けて、末の息子のエリエゼルに対して、割礼の儀式をなおざりにしていたことを思い起こしました。妻はこう言っていたかもしれません。「あなた、何もそこまでしなくても良いのではありませんか?長男のゲルショムは割礼を受けましたけど、とても痛がって可愛そうでしたよ。私たちはこの40年間、神様の御心に従って訓練を受けてきました。これまで神様に従わなかったことはありませんでした。この一つのこと、そんなに重要なことではないんじゃないですか」。

「割礼を受けたら、痛くてしばらく不便だから、一人ぐらいしなかったとしても、そんなに厳密でなくてもいいんじゃないでしょうか。寛大にしましょうよ」。そういった妻の言葉を聞いて、モーセは急に弱くなって、エリエゼルに割礼を施さなかったのでしょう。それにもかかわらず、その子をこうして連れてきたのです。

皆さん、私たちは神様に従順に従っていると言いながら、実際には人間的な概念、自分の考えを持って生きていることがほんとうに多いのです。私たちは神様に対して、完全に従うか全く従わないか、二つに一つなのです。あるものは捨てたけれども、あるものは捨てていないではないのです。私たちが取捨選択して神様に従うのでもありません。私たちは、心を尽くして、力を尽くして、命、品性の全てを尽くして主に従わなくてはいけません。私たちが主を愛するという時、適当にすることはできないのです。

私たちが主に従うということ、私たちの主を愛するということは、行動を通して表されるのです。ヤコブの手紙にこのようにあります。「行ないのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」(ヤコブ2:18)。

皆さん、外面に現された行いが私たちを救うのではありませんが、行ないは私たちの心の内の霊的な状態、信仰を表したものです。そして神様に従うというのは、神様が言われた通りに従わなければならないのです。神学的に理解して、論理的に納得して、感情的に同意して従うのではなく、神様が言われたことは、ある場合には理解できなくても、やりすぎのように思えても、論理的でなかったとしても、そのように感じたとしても、主が言われたので従うということです。真理とは、私たちが論理的に納得して、よく理解できたから真理ではないのです。真理とは、神様が聖書を通して言われたので、私たちがそれを実行してそれが真理であることを体験できるのです。