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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

血の花婿 デイビット・カン説教より  第7回

2016年08月13日 | 日記

   罪を捨てる経験

 今でもアメリカでは男子が生まれると割礼を施します。病院から出る前に割礼を受けています。なぜそのようなことをするのでしょうか。なぜ割礼を施すのでしょうか?割礼が健康に良いからです。神様もそのことをご存知だったのですね。割礼は、霊的にも、身体面においても祝福となりました。割礼は、契約自体ではないですけど、契約のしるしが必要でした。ですから契約のしるしとして、彼らの従順の象徴がこの割礼であり、それが重要とされたのです。

男子は皆割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない」(創世記17:10~12)。

神様はこのように言われました。子供が生まれて8日目は血が凝固するのに一番よかったのですね。科学的にも8日目に割礼を受けることはとても良かったのです。ですから8日目に割礼を受けなさいと神様はおっしゃったのです。

あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」(創世記17:13、14)

 

 皆さん、神様はある時このようにおっしゃるのですね。私たちにとって、あまり重要でなく、些細なものだと思われても、神様はそう命じられるのです。ある命令は、私たちがそれを破ったら、もう雷が落ちて審判を受けるかのように感じる戒めであったとしても、あまり重要ではないと感じる命令であったとしても、主は私たちにそのような戒めを与えて、心のほんとうの動機を明らかにされるのです。戒めによって「してはならない」と言われることは、私たちの心にある愛と忠誠、そのような動機を試されるのです。

チッポラは夫が殺されようとした時、ほんとうに主を恐れて、末の子の前の皮を切ってモーセの前に投げて、言いました。「あなたは私の血の花婿です」。もう一度言いますね。チッポラは神様の言われた命令を守らないように、助長してしまったのです。ですから正しく悔い改めて、このように行いました。そして、「血の花婿です」と言いました。

皆さん、私たちのあがないにおいて、イエス様のあがないの血、契約の血が必要なのです。ですが私たち自身も、主の前に血を持っていくべきなのです。イエス様は私たちを救うために血を流されました。イエス様がすべてされたので、私たちはもう血を流す必要はない、ではないのです。私たちが主の前に行く時、血を流す必要があるのです。どうして、なぜでしょうか。それは、私たちの犠牲なのです。私たちの犠牲、私たちの血が私たちを救うわけではありません。そうではありません。人を救うのは、聖なる主の血のみなんです。しかし、私たちも間違ったものをへし折って、間違ったものを切り取る必要があります。

右の手が罪を犯したなら、それを切ってください。右の目が罪を犯すなら、それは抜き取ってください。それが、イエス様がおっしゃった言葉です。これは最も象徴的な言葉ですね。もう一度言いますと、私たちはどれ程犠牲を払ったとしても、どれほど痛みを感じたとしても、罪を切り捨てて、投げ出して主の前に行くべきなのです。

それが悔い改めなのです。悔い改めとは、主の御心に従っていないものを捨てて、犠牲を払ってでも主のもとに行くことなのです。多くのクリスチャンたちは、間違って福音を考えています。主が十字架によって全てを支払ってくださいました。主が値なく私たちをあがなってくださいました。けれども私たちも、心をつくし、力をつくし、精神をつくして主を愛する、そのような屈伏をする必要があるのです。主はそれを望んでいらっしゃいます。ほんとうに間違った思想が教会の中に入ってしまって、曖昧にされてしてしまったために多くの問題が生じています。