今日またこの場所に、皆さんが集って下さったことを嬉しく思います。今日は、本当に重要な件についてお話ししたいと思っています。いろんな教会の方、主にアメリカのプロテスタント教会ですが、その人たちと会うと、時々挨拶の言葉として、「あなたは救われていますか?」と聞かれます。日本のクリスチャンの皆さんは、どのような挨拶言葉を交わされるか知りませんけれども、とくにアメリカにおいては、このような挨拶言葉が頻繁に使われています。「救われていますか?」。そうすると「私は主にあって救われています。ハレルヤ!」と答えるわけです。「あなたは赦されていますか?」。「私は主によって、イエス・キリストの死によって赦されています」という挨拶もあります。彼らはそのことについて確信を持っていて、喜びにあふれているので、そのような言葉が出てくるわけですね、しかし私たちは、本当は、「あなた救われていますか」とか「はい、救われています」とか、そのことについて「ハレルヤ」と言うことについて、もっと注意深くなくてはいけないんです。なぜでしょうか?私たちはイエス・キリストにあって救われているのではないでしょうか。私たちは、実際は救われているわけですけれども、そういう時には気をつけなければいけないわけです。なぜなら、もし私が「救われている」と軽々しく言ってしまったら、人々は、私を救われるための標準として見てしまう危険があるからなのです。「ああ、あの人があの状態で救われているんだったら、私も救われているに違いない」と考えてしまうことがあるんですね。ですから、キリストの恵みによって、私たちは自分が救いの基準となるような形を作らないように注意すべきなのです。
赦しについてはどうでしょうか?「あなたは赦されていますか?」もちろん私たちは、「神様の恵みによって赦しを受けています」と言うことが出来ます。「キリストの尊い血によって私は赦しを受けています」と、そのことに間違いはありません。私たちは心情においてそのような確信を持っているべきです。と同時に私たちは、このように言う時に、注意深くあるべきだということについて考えてみたいわけです。「私は赦されている」と言うべきではないと言っているわけではありませんが、赦されていることの本当の意味をここで考えてみたいのです。たくさんのクリスチャンに出会いまして、赦されていると言いながらも心の中ではその確信がない人も実はおられるのですね。そういった、クリスチャン個人個人を裁いているわけではありません。
ここで言いたいのは、神様の赦しの原則についてです。神様の救いの力を私たちは誤解すべきではありません。神様は聖書の中ではっきりと、私はエホバであり、あなたの唯一の救い主であると言っておられます。天使が私たちの救い主となることはできません。どんな人間も私たちの救い主とはなりえません。私たちの救い主となられるのは、神様だけが持っておられる権利と言えるわけです。
ある神学者たちはこんなことを言います。「もし罪のない人であれば誰であっても、有罪の人の身代わりとなる事が出来る」と。それは真実ではありません。天使たちは堕落したことがなく、聖天使というように、彼らは罪のない存在です。だとしたら百万の天使が百万の罪人の身代わりとなって救うことが出来るでしょうか?それは全く真実ではありません。イエス様が身代わりとなって死なれたということは、血を流されたということは、身代わりの血が流された以上の深い意味があるのです。その救い主であられる方は、同時に創造主でもなくてはいけないんです。神様は、「私はエホバの神、ほかに救い主は私以外にはいない」と言われます。イエス・キリストを他にして、私たちを救いうる名は天下の誰にも与えられていないと聖書に書かれています。そしてイエス様がご自身のために、ご自身の栄光のために私たちを創造なさったと書かれています。創造主であられる神様だけがそのようなことを言うことが出来るわけです。