解放者モーセ
血の花婿
出エジプト記4章24節から26節をお読みします。
「さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、『あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です』。そこで、主はモーセをゆるされた。この時『血の花婿です』とチッポラが言ったのは割礼のゆえである」。
モーセはミデアンの荒野で40年間、神様の再教育を受けました。そして彼は神様に召し出され、神様の民をエジプトの奴隷生活から、解放させる者として選ばれました。もしイスラエルの民にとって、出エジプトの事件がなかったとしたらどのようになっていたでしょうか?皆さん、出エジプトのない聖書は、その大きな意味を失ってしまうのです。出エジプトがなければ神様の教会は建てられることはなかったのです。そのような重要な立場にあって今、40年の訓練を受けてほんとうに砕かれ謙虚にされたモーセ、自分の力ではなく、神様の力によってのみすべてが可能であることを徹底的に感じたモーセが、今、彼の家族を連れてエジプトに行こうとしていました。ところが天使が現れモーセを殺そうとしたのです。どれほど不思議な御言葉でしょうか。聖書には、私たちがよく考えなければならない事柄や、またある時には、全く理解出来ない場面も登場するのですが、この場面はほんとうにそのような奇妙な場面と言えるでしょう。
神様がご自分の民を救うために遣わされたモーセを、突然天使を送って殺そうとされたのです。この事件は、この終わりの時代に私たちに直接適用される、とても重要な御言葉なのです。なぜなら、私たちもこの世の暗闇の中にあって、罪に捕らわれ、バビロンのワインに酔って、よろめいて、間違った教えの中にあって奴隷となって生きているからです。
多くの人が、罪というエジプトの泥沼の中で、苦しみながらもがいています。自我の重荷を引きずり、会社や組織の奴隷となっている人たちが大勢います。生きる意味も、人生の目的も分からないまま、ただその日を生きるためにだけ生きている人たちに、この自我の重荷から解放し、罪の奴隷から解放してくれる、全面的な屈伏の経験を伝えるために、私たちもエジプトへ遣わされているのです。今も罪のエジプトにいる捕らわれ人たちの所へ、約束のカナン、天の神様の御国へ行きましょうという働きのために召された私たちにとって、このモーセの経験はとても重要な意味を持っています。
皆さんご存知でしょうか?皆様と私たちは、今エジプトに向かっているのです。どうしてでしょうか。主の民が罪に苦しみ、あえいでいるからです。真理によって、主の力によって、奇跡によって、彼らを解放し救うために、今私たちはエジプトに向かっています。