新しい契約の経験
チャップリンの映画に、『独裁者』というのがあります。この世の中には独裁者が多いのです。ある意味では、神様も独裁者なのです。神性政治、そうですね、これは独裁なのです。神様は完全に独裁者なのです。世界を創造なさった方に絶対的に従う、これは独裁なのです。私たちが神様にお願いしたのでしょうか、そうではありません。神様から創造されたのです。ところで、この世の独裁者と神様との違いは何でしょうか。神様は私たちの幸せと平安のために存在しておられる方なのです。私たちを創造されたのも、美しい自然を創られたのも、すべての創造の目的と意味は私たちの平安と幸せのためでした。自分の力を示すためではなく、私たちの永遠の命のために、私たちの幸せのために全てを治め、支配しておられる麗しい方なのです。
私は、私の人生において、神様が独裁者であられることを望んでいます。なぜなら、神様がどのような品性の方であるかをよく知っているからです。もちろん神様は、決して強制されることはありません。天の御国に強制的に連れて行かれることもありません。神様が何かを語られる時はいつも、私たちの幸せと永遠のためなのです。私たちの安全のためです。
ですから私たちは主の戒めを、その命令を喜んで、感謝をもって従うことが出来るのです。他の人々が見ると、極端に見えたとしても、関係ありません。主が言われる、主が命令されたことを、喜んで、感謝をもって従うのです。そのような心で神様に従わない者は、終わりの時代の最後の神様の民ではないのです。ですから「聖徒の忍耐がここにある」(黙示録14:12)とあるのです。
なぜ忍耐が必要なのでしょうか?最後の試練を、艱難を通るからです。その時世界は、神様の戒めとイエスの信仰を持つ人々となります。イエス様の信仰って何でしょうか。神様の命令を守るためにその信仰が必要なのです。この二つは分離することは出来ません。イエス様は私たちと同じように肉の様(さま)を持ちながら、堕落した肉の性質を持ちながらこの地上に来られて、神様の戒めを徹底的に守り、罪を犯されなかった方です。これがイエス様が持っておられた信仰なのです。イエス様の信仰を私たちが持たなければ、私たちは罪を犯さないと言うことは出来ません。イエス様は神様の戒めを一度も破ったことがない方でした。イエス様は心をつくして御父の命令を守り、この地上においてそのように生きられました。イエス様は33年半の生涯において、たえず神様の御心を祈り求め、戒めを守り、神様の御心に生きることを楽しみ喜ばれたのです。
私たちが神様にお従いする時に、ただ言われたからというだけではなく、喜んで、楽しんで、そのような心で守るべきなんです。それが新しい契約の経験なのです。それが愛であり、それが従順です。私たちは主を愛し、主を尊敬し、畏れの心を持って主に従うことが真に出来るのです。それが真の従順なのです。