神様に保護される者
皆さん、モーセは、使命を持ってエジプト王パロの所に行こうとしていました。パロの前に立つ必要があったのですね。彼は非常に危険な立場にあったわけです。モーセはまさに今パロの前に立とうとしていました。パロが「連れて行け」、と言えばもう首を切られて死んでしまいます。獅子の穴や毒蛇の穴に投げ入れられるか、つかまれば死んでしまうのです。武器もありません。そのように、モーセとアロンはパロの前に立とうとしていたのです。
その時、神様の奇跡と聖なる天使たちの支えがなければ、彼らは命を保つことは出来ませんでした。そのような非常に危険な場所に彼らは行こうとしていたのです。このような時に、モーセがたった一つでも主の戒めと御心を破っていたなら、あるいは無視していたとするなら、主は彼を保護することは出来なかったのです。もし、彼が戒めを守っていないのに彼を保護したとするなら、悪魔は何と言うでしょうか。「あれ、神様、彼らは戒めを破っているのに、契約を破っているのに、それでも神様は保護されるのですか。あれ、だったら私はどうでしょうか?私の部下はどうですか?私たちもまた天に連れて行ってくれるのでしょうか?私たちも神様の戒めを破った者ですけれども、どうして彼らだけ保護されるのでしょうか?」
救いとは、この地球上のことだけではありません。全宇宙を含んでいるものなのです。神様が一人ひとりを審判し、救われる時、全宇宙に対して、彼らが義人となり、正しい人となったことを証明されるのです。私たちが義とされる時に、全宇宙に私たちが義とされたことが表されるのです。そのために私たちは、霊的割礼の経験を通る必要があります。私たちが義とされた時、「見なさい、この人々を見なさい。過去は確かに彼らは罪を犯しました。しかし、赦しを受け、救いを受け、罪が終わったのです。彼らを見なさい。もはや彼らの内に罪は見い出されません」という宣言がなされます。
皆さん、罪が終わった人の生き方の特徴は、主の命令とあれば、いかなる場所へでも喜んで行き、行きたくてたまらない、従うことが喜びになることです。そしてこれが、モーセのように、地上歴史最後の時代に、人々を罪の奴隷生活から解放する、そのような使命を持った人々の品性であるべきなのです。
皆さんご存知でしょうか?この世界に向かって、私たちはこのような使命、このような態度を持っている必要があるのです。ですから私は、いつも「神様の戒めを守る民」であるべきことを強調しているのです。間違った福音によって、多くの人々が主の戒めを廃しているからです。
皆さん、使徒パウロは言っています。私が、あなた方に教えた福音以外のものを教える人々に対して呪いがあるように、呪われよと言ったのです。とても恐ろしいことですね。非常に強い言葉で「呪われよ」とパウロは強調しています(ガラテヤ1:9)。
皆さん、奇跡が起きなければ、モーセは命を守られることはありませんでした。ですから彼が、知りながら罪を犯していたら、それでは天使の保護を受けることは出来ませんでした。
罪を犯す者を保護するなら、宇宙の住民はこれを承認することは出来ません。時には失敗して倒れたりすることはあるでしょう。ですが主は最後の患難を通る時力を与えて、私たちを強め、そのようなことがないように助けて下さいます。再臨を前にして、再臨直前の時代にあって、私たちは、艱難を通る義人として、天使の保護の特別な守りを受けるのです。もうこの全世界が悪の手に渡り、御霊が取り去られた時に、そして真理を憎む人々が、武器を持って私たちを攻めてくるその時に、特別な天使の保護がなければ私たちは安全に生きることが出来ません。
その時に、どのような人となるべきでしょうか?主が保護し、天使が守る時に、髪の毛一つも落ちることがないようにと、命令することが出来るほどの義人となり、主の戒めを守る者となるべきです。主に絶対的に従う者となるべきです。