私はあってあるもの
『ヨハネによる福音書』8章に、興味深いことが書かれています。ナザレの住民がイエス様を石打ちの刑にしようとしていました。イエス様のおっしゃった、あることを聞いた彼らは、これは神を冒涜(ぼうとく)する言葉だと考えたわけです。「私はあなたがたの父アブラハムが生存した時以前に、すでにいたものである」と宣言なさったのですね。私はかつていた者とは言わないで、いずれ現れる者とはおっしゃらないで、出エジプト記にあるように「私はあってあるもの」、神様だけが用いられる言葉ですね、そのように宣言なさったのです。アブラハム以前からずっと永遠に存在する者であるということ、今も存在し、過去にも存在し、未来にも永遠にわたって存在する者であると言われました。ギリシア語で「エゴ-エイミ」と言う言葉で表わされます。ユダヤ人はその言葉の意味をよく理解していました。「私はあってあるもの」、自ら、存在の原動力である神であるということです。イエス様はそのように宣言なさったのです。それを聞いたユダヤ人たちは怒ってイエス様を石で撃とうとしました。イエス様は、御自らエホバの神であるということを宣言なさったのです。
もしそのことを信じなければ、私たちに救い主はいません。私たちの救い主はヤハウェーなる神様なのです。天と地と私たち人類をお創りになった神様です。天使をはじめ、すべての生き物をお造りになりました。そして人間の形をとって、しもべとして受肉してこの地上においでになられた方です。その事を思うだけで本当に厳粛な思いにとらわれます。イエス様を見る時、私たちは創造主なる神を見ることが出来ます。イエス様を見る時、宇宙の王であられる方を見ることが出来ます。そのようなお方が、しもべの姿でこの地上においでになったということを、私たちは本当の意味で理解することは出来ません。
多くの人たちは、イエス様は過去に存在した聖人の一人にすぎないと考えています。しかし彼は、ただの聖人ではありませんでした。イエス様は、過去に殉教した聖人たちと同じ存在ではなかったのです。ただの善人ではありませんでした。彼は神様であられました。天と地をお創りになられた方でした。この宇宙に何百万、何千万と存在する星をお創りになりました。命の源であられ、自ら存在なさるお方です。聖霊の力によって、そのことの意味を正しく悟る時に、彼の力によって救われるというのはどういうことかを理解できるようになります。