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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

完全な屈服 第6回

2015年11月15日 | 日記

 死を目の前にしたとき

ヨエル書にこのようにあります。2章12節、13節、「主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け。あなたがたの神、主に帰れ」。皆さん、旧約聖書はずっと心について語っているのです。心に割礼を受けよ、肉ではなく心の内に割礼を受けよ、私たちが全的に屈服することですね。

皆さん、クリスチャンが死ぬことを恐れるのは良くないですね。私たちが死ぬことについて恐れがあるのは、何かが間違っているからです。

そういう人は何が間違っているのでしょうか。私が今死んだら、夫はどうなるのか、子供たちはどうなるか、そのようなことは心配になるでしょう。ですが死ぬことに関して恐れを持ってはいけないのです。神様の前に立つことに恐れがあってはいけません。では、私たちが死を恐れないのは、自分が全面的に正しいからでしょうか?完全だからでしょうか、そうではありません。私たちが、神様に心を全て捧げていて、私たちの心に、主の前に何も隠すものがない、主がご存知でないものを私たちが持っていない、すべてのものを生きたささげものとして捧げているから恐れがないのです。

ジョン・ウエスレーがイギリスからアメリカへ渡る途中、船の中で暴風が起きた時、彼は心の中で死を恐れたのです。ところがその船にモラビア派の人々が乗っていて、その人たちは少しも死を恐れず平安に祈っていました。ウエスレーは、「ああ私はどうして牧師なのに祈れないのか、死を恐れたのか」そのように感じました。そしてアメリカから戻ってきて、そのことについて理解を深め、後に主の前に完全に屈伏することになったのです。徹底的な屈服を経験しました。

私たちも、「主に捧げられないものは何も残していない」、と言えるように屈服する必要があります。私たちはこれまで生きてきた中で、たくさん弱さがあったかもしれません。そのようなものもすべて神様の前に差し出して、捧げていかなければなりません。神様の前に恐れがあるのは、何か捧げていないものがあるからです。新約、旧約聖書を通して神様が求めておられることは、徹底的な屈服という経験です。

皆さん、自分を偽っていることはありませんか。自己欺瞞に覆われて見えていない罪はありませんか。神様に心のうちを探っていただいて、試みていただいて、隠れた罪を教えていただく必要があります(詩篇139:23,24参照)。そして、教えていただいた罪は、たとえどんな代価を払ったとしても神様に捧げ屈服する必要があります。屈伏すると、神様の御心が分かるようになります。そうしないなら、この世の色々な誘惑、世俗的な考えが支配するようになり、神様の御声を聞く機会をなくしてしまいます。とても多くの人々が真理の教えを受けながら、神様の御声を黙殺してしまって、聖書の御言葉通りに歩んでいません。


完全な屈服 第5回

2015年11月14日 | 日記

   降伏の条件

では、私たちが神様に降伏、屈服する時、罪を告白して悔い改めて神様のために生きるように決心する時、神様が与えられる条件は何でしょうか?何をすることが神様の息子娘となる条件でしょうか。その条件を神様はおっしゃったのですね。それが箴言23章26節にあります。「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、あなたの目をわたしの道に注げ(ぎ楽しめ。韓国語訳)」。

何を与えよと言われていますか?「あなたの心を与え、あなたの目を私の道に注げ」とあります。韓国語ですとここは、私の道を楽しめ、と書いてあります。それはどういう意味でしょうか。神様の計画、神様の導きに従っていくことを楽しむこと、自分の思い通りでなく、自分の選択でもなく、神様が私に命じられた通りに、それを喜びそれに従っていくこと、それが私たちの心をささげるということなのです。

詩篇119篇の2節にはこのようあります。「主のもろもろのあかしを守り/心をつくして主を尋ね求め」。私たちは心を捧げて神様に従っていく時、主のもろもろのあかし、命令、戒めを楽しみながら守るようにされるのです。「主のもろもろのあかしを守り、心をつくして、心をつく」すとはどういうことでしょうか。すべての心をつくして、すべての心を捧げて主の助けを求める、私たちの心を全てささげるとはどういうことでしょうか?このことに対して主の御心は何か、私たちの家族に対しての主の御心は何か、教会に対しての御心とは何か、すべての心をつくして探し、そして主の御心を行い、主の証しをし、主の戒めを守り行うことなのですね。エレミヤ書にこのようにあります。29章11節、

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり」。皆さん、私たちが神様に全面的に屈服しようとする時に、ある恐れが来ることがあります。すべてを捧げたら私は生きていけるだろうか、私はこの世において、もう喜びも楽しみもなく、奴隷のようになって、自分がやりたくないことも、主がしなさいと言われるからやらなければならない、そのような考えを持つ人がいます。でもそうではありません。

主が私たちに対して持っておられる計画は、災いではなく平安を与えるものです。「あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心に心をつくしてわたしを尋ね求めるならば」(エレミヤ29:11~13)とおっしゃったのですね。神様が屈服しなさい。降伏しなさいと言われます。その条件は何でしょうか。ごく簡単なのです。心のすべてを捧げる。これが屈服なんです、主がこれを望まれます。これが条件なのです。私たちの心を捧げるということは、心のすべてを捧げるということなのですね。心にあること全てということです。


完全な屈服 第4回

2015年11月13日 | 日記

神様の御声を聞く

私たちの子育てについてはどうでしょうか。自分たちの欲や願望があると、子供たちを育てるとき、神様の御心ではなく、自分たちの思いのままにしてしまうのです

皆さん、今皆さんの人生の中で、自分がどこに住みたいとか、何が必要かという人間的な計画、欲があるなら、神様が皆さんにどのような人となり、何をして欲しいのか、神様の静かな御声を聞くことが出来ません。ですから、私たちの進むべき道を明らかにしたいなら、徹底的な屈服があるべきです。皆さん、私たちがそれをしないなら神様の働きを受けることは出来ません。神様は別れた心、二心の人に働くことは出来ないのです。私たちの心が少しでも二心に分かれているなら、私たちの心に神様が働かれることは出来ません。神様の働きを見ることは出来ないのです。そして主の御声を聞くことは出来ないのです。

皆さん、このような表現をしますね、「聖霊に満たされる」と。人々が聖霊に満たされるということは、それは神様の力を受けて、啓示を受けて、ある時には人々を救うための特別な何か賜物を受ける、そういったことと考えていますね。聖霊に満たされるとはどういうことでしょう。それは、私たちが真理のみ言葉に導かれ、神様の御心を知り、神様の働きを知り、神様の真理を知ることなのです。教会でよく起きているのは、御霊に満たされると、何か熱くなって、心に火が燃え感情が高まるというようなことですが、そういうことよりも、神様の御心、聖書の教えを知り行うということなのです。

私たちが、インターネットでIDアドレスを正確に打つならば、知りたいと思っているその場所に案内されて行きます。アドレスが正確であれば、誰でもそこへ行くことが出来ます。あるサイトに行くためには、スペルが一つでも間違えるとだめですね。 sostv.netこの文字を正確に打てば私たちのサイトに行くことが出来ます。アドレスが一つでも違うと、行くことが出来ませんね。同じなんです。私たちは神様の前に行く時、徹底的な屈服が必要なのです。

ちょっとたとえてみたいと思います。旧約聖書、列王記上20章で、ベネハダテと言うシリアの王が軍勢をことごとく集めたことが書いてあります。32人の王を集めてイスラエルを攻撃しようとしました。ここを読んでみますと、ベネハダテはもう驚くべき屈伏の、降伏の条件を出したのです。アハブはもう降伏しますと言いました。ところが降伏の条件を聞いたら、もう、王と親戚、家族、子供たちも、イスラエルにある全てのもの、領地、食糧、この地にあるすべてのすべてをさし出せと言ったのですね、すべてのすべてをさし出すようにと言いました。建物も金も銀も刀も、完全に自分のものはなくなってしまうことになったんですね、驚くべき降伏の条件をこのベネハダテは突きつけたのです。このようなことが、この世の降伏の条件ですね。

 

ところが、皆さん、アメリカで南北戦争がありました。その南北戦争が終結する時に、北のグラント将軍と南のリー将軍が終戦の締結をしたのですけれども、実はグラント将軍とリー将軍は、同じ軍隊で育った同期生だったんですね。一人は北軍に行きもう一人は南軍に行って戦いをしたのです。この戦争では63万人の軍人が死んでいったのです。そして、何万という家が壊れ、人々は避難し、本当に悲惨な戦争の結果、ついに北軍が勝ったんですね。これは神様の摂理によって北軍が勝ったのです。もし南軍が勝っていたら、本当に大変なことになっていました。奴隷制度が今なお残っていたことでしょう。ですが神様の摂理によって北軍が勝ったのです。

この終戦の調印式をするとき、グラント将軍は降伏の条件を出しました。ところがそれは本当に情け深い条件だったのですね。その時南軍を指揮していたリー将軍と、25万人の南軍兵士に対して、食べ物とスープを全員に与えるようにと言ったのですね。そして降参した南軍に対して、故郷に帰ってアメリカの市民として家を建て、今までの通りの生活が出来るようにしなさい、何か足りなければ国が助けると、そのような命令を出したのですね。今まで持っていた土地や建物はそのまま与えられました。ただ一つだけ条件がありました。軍人たちが持っていた武器、それだけはここに置いて、武器をすべて放棄して空手で帰りなさいと、そしてこの国の市民として生きなさいというものでした。これ本当に驚くべき寛大な条件ですね。


完全な屈服 第3回

2015年11月12日 | 日記

  実を結ぶ人

マタイによる福音書21章43節44節にこうあります。「それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」。皆さんこの御言葉は、ユダヤ人に対して言われたのですね。神の国はあなたがたから取り上げられて、「御国にふさわしい実を結ぶような」人に与えられるのです。どのようにして御国にふさわしい実を結ぶことが出来るのでしょうか。神様の御声を、小さな御声をどのようにして聞くことが出来るのでしょうか。どうすれば神様の王国の民となることが出来るでしょうか?44節にはこのようにあります。「またその石の上に」これはイエス様の上にということですね、「落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。石が私たちのうちに落ちて来るならば粉みじんに滅びてしまいますね。ですからその前に、イエス様という石の上に落ちて打ち砕かれる必要があるのです。そうですね、打ち砕かれなければなりません。私たちは石の上に落ちて打ち砕かれる必要があるのです。私たちの生き方が、私の計画が、私の願いが、私の意志が、選択が、こういったすべてのものが、細かく砕けて、ただ主の御心だけを生きるようになり、主を誇るようになる必要があります。それが生きた聖なる供え物となることなのですね。そうする時に実を結ぶようになるのです。

箴言14章12節にこのようにあります。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」。エレミヤ書にもこのようにあります「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを/自分で決めることのできないことを」(エレミヤ10:23)

 

ある人は、自分は教会の教えを忠実に守り、礼拝に休まず出席し、いろいろな奉仕活動を行い、忠実に献金をしているから、神様のみ心を行っていると思っています。しかし皆さん、神様の前に完全な屈服、全的降伏がなければ、自分の目にも人の目にもそれは良いものに見えたとしても、神様の前には死に至る道があるのです。自分でどんなに正しい道と思っていても、滅びに行く道があります。神様の道を知るために、御心を知るために、その小さなささやきを聞くためには、神様に反対する心、逆らう思いは捨てられなければなりません。私の計画、私の選び、私の考え、世俗への欲望、そういったものがあると神様のみ心を知ることが出来なくなります。 

自分の内に世俗に対する執着や、名誉に対する欲や、自分の心のままにやりたいことがあるなら、神様の御心が自分の内に実現することはありません。その道は滅びに至るのです。ですからもう一度言いますが、完全に神様に屈服しない人の道は、明らかにされません。自分の心や、意志や、動機や、将来の計画も、全て神様のみ心が行われていくためには、キリストの岩の上に落ちて砕け散る、そのような経験がなければなりません。それがなければ、自分の行くべき道がどこなのか明らかにされず、私がどこへ行くことになるのか知ることは出来ないのです。

そして大事なことは、このことは、未信者ではなくて神様を信じる人々のために語られたことだということです。神様や聖書を知っている私たちが、自分の心を空にして神様の導きを受けなければならないのです。そのためには屈伏が必要です。私の意志、願望、捧げることの出来ないもの、手に握って離そうとしないもの、計画、そういった欲望があるなら、主の明らかな御言葉を、天の御心を知る、見ることは出来ません。神様が私に何を望んでおられ、何をして欲しいのか、そういったことを知ることが出来ません。