はなしの続き🐌
もいちど、東京時層地図アプリで、明治初めの古地図を見てみます👀
赤矢印は、江戸から府中を結ぶ江戸時代以前からあった滝坂道。
緑矢印は、滝坂道から分岐した、森巌寺(淡島大明神)へと向かう道。
そんなふたつを前回、前々回は、ふらふらとお散歩してみました。
特に、森巌寺への道ですが、江戸から朝イチにお参りにきて、評判のお灸を据えてもらい、帰りは元来た道から、神泉谷の弘法湯に立ち寄りひと風呂。
それ以前、ここは村の子どもらが通う森巌寺の寺子屋(下北沢と代田の村の両地名を合わせて「代沢塾」と呼ばれた)があったそうでして、滝坂道から淡島さまへと続く道の終点にこの寺子屋が建っていたわけなのです。
小学校に建つ安吾の碑を見ています👀
「人間の尊さは自分を苦しめるところにある」
これは、放課後にひとりで居残っている自分に向かって話しかけたセリフで、安吾の自伝小説のなかの一節です。
そんな桜並木の安吾の碑を、飼い主さんと真剣な様子で立って見ている犬がいました笑
実は、この小学校は来年で建て替えになるのです。。
いちファンとしてはやはり気になるところです。
もいちど、東京時層地図アプリで、明治初めの古地図を見てみます👀
赤矢印は、江戸から府中を結ぶ江戸時代以前からあった滝坂道。
緑矢印は、滝坂道から分岐した、森巌寺(淡島大明神)へと向かう道。
そんなふたつを前回、前々回は、ふらふらとお散歩してみました。
特に、森巌寺への道ですが、江戸から朝イチにお参りにきて、評判のお灸を据えてもらい、帰りは元来た道から、神泉谷の弘法湯に立ち寄りひと風呂。
そして、座敷で一杯。。。
そんな娯楽が大流行りをして、賑わったお寺の門前とともに往来のある道だったようですね!
また、明治初期の古地図を見ると、村道は森巌寺の先を、田んぼのなかの川のほとりに建つ一軒家へと繋がっているようです。
滝坂道からつながる古道の終点にはいったい何があったのでしょうか。。
そんな娯楽が大流行りをして、賑わったお寺の門前とともに往来のある道だったようですね!
また、明治初期の古地図を見ると、村道は森巌寺の先を、田んぼのなかの川のほとりに建つ一軒家へと繋がっているようです。
滝坂道からつながる古道の終点にはいったい何があったのでしょうか。。
早速行ってみると、そこには現在小学校が建っています👀
《学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。》
と、大正の末に周囲の風景を記述したのは、当時20歳でこの代沢小学校の代用教員となった坂口安吾なんですね❗️
ワタシの好きな「桜の森の満開の下」の作家が、かつてはこの小学校の代用教師をしていたなんて、ちょっと嬉しかったりします。。
《学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。》
と、大正の末に周囲の風景を記述したのは、当時20歳でこの代沢小学校の代用教員となった坂口安吾なんですね❗️
ワタシの好きな「桜の森の満開の下」の作家が、かつてはこの小学校の代用教師をしていたなんて、ちょっと嬉しかったりします。。
調べてみると、代沢小学校は世田谷区で1番古い若林小学校の分校として、明治のおわりに開校したようです。
そこにやって来たのが坂口安吾だったんですね❗️
とはいえ、たったの一年で教員を辞めちゃったようですが、自分を安吾と称したのもこの頃だったとか。。。
そこにやって来たのが坂口安吾だったんですね❗️
とはいえ、たったの一年で教員を辞めちゃったようですが、自分を安吾と称したのもこの頃だったとか。。。
それ以前、ここは村の子どもらが通う森巌寺の寺子屋(下北沢と代田の村の両地名を合わせて「代沢塾」と呼ばれた)があったそうでして、滝坂道から淡島さまへと続く道の終点にこの寺子屋が建っていたわけなのです。
小学校に建つ安吾の碑を見ています👀
「人間の尊さは自分を苦しめるところにある」
これは、放課後にひとりで居残っている自分に向かって話しかけたセリフで、安吾の自伝小説のなかの一節です。
そんな桜並木の安吾の碑を、飼い主さんと真剣な様子で立って見ている犬がいました笑
実は、この小学校は来年で建て替えになるのです。。
明治大正に渡って長い歴史を持つ小学校は近頃子どもがめっきり減ってしまったようでして、いよいよ隣地域の小学校と合併することになったからです。
その時、果たして、この安吾の碑は移ってしまうのでしょうか、、
その時、果たして、この安吾の碑は移ってしまうのでしょうか、、
いちファンとしてはやはり気になるところです。