気が向いたので、昨年の古道の続きを歩いてみた( ̄Д ̄)ノ
世田谷では、地域風景資産に指定されている滝坂道。。。
ざっと読めば、この道は、
古くは、府中を結ぶ政治的な意味合いの往還から、
江戸時代には、庶民の信仰の道として使われるようになり、、
その後、淡島通り周辺が陸軍省用地に様変わりをして、
軍用車だか軍用馬の往来がひっきりなしの時代に突入。
戦後は、環状線 山手通りとともに、
この辺りでは立派な道路!お世話になりますバス路線!
そんなこんなの歴史の背景があったのね。。。
で、今回の散歩のはじまりは、
淡島通り(滝坂道)の松見坂交差点から。。。
お久しぶりのこの明治末の古地図では、遠江橋と書かれているところが、それ!
川の流れるこの低地は、あたり一面田んぼだったのね…。
考えてみれば、ここって、
いままでのワタシのご近所歴史散歩でも、
都会の分水嶺 三田用水路跡やら、
駒場東大敷地内の湧水地を端にした空川暗渠歩きなどで、
たびたび歩いているのよね……(・◇・)
そして、松見坂は文字の如く、松のもと見渡す景色が、
江戸の名所図絵になるような場所だったらしいし、、、。
う~む。。。
やはり、歴史ってのは、場所まで同じ所を繰り返し、選んでしまうものなのか?
ともあれ、松見坂から古地図では緩く左カーブ。
淡島通りを離れて、本命の旧道へ入ります。一気に静かだなっ。
この丸いオブジェを見ていると、
当時の土地の形状が分かるような気がしてきた。
なるほど~~。
古地図ではわかりにくいが、
一旦道は下がってから、再び上がっているのか。
そして、この小さな交差点をピークにまた下がるのね。
たった100mほどの道でも、やたらと細かな起伏がある。
昔、荷車で通行するには、誰かに押してもらって、
なんとか通行していた、という話も納得!
ムムっ!
交差点から右を見ると、なにやらここは覚えがあるぞっ!?
地図を見ると、やはりこの道は三田用水路跡の小道じゃないですか!
かつては都会の分水嶺に沿って流れたこの用水路。
つまり、この小さな交差点がこの辺りの土地のピークにあたるというわけか…。
確かに、ここから道は下がって、広い山手通りに出た。
滝坂道は山手通りを突っ切った先へと続いているが、
尚、下がっているのがわかる。
旧道らしく、細くうねった道は、
同じ滝坂道を世田谷の豪徳寺に向けた風情に似ていました。
でも、やはりここは渋谷!おしゃれな店がいっぱ~い。
フクロウカフェまで、ありました!
30分1500円か。。。う~ん。。(⌒-⌒; )
この並び、明治の古地図では、かつて大きな建物が並んでいたのがわかる。
おそらく、花街と呼ばれていたころの料亭じゃないかな。
で、そんな跡地の一角が駐車場になっていて、、、。
その奥に古い石積みの一部を見つける。
古地図にも見えるこの塀。
裏手には昔の湯治場、弘法湯があり、敷地の外構らしいが、
その後、辺りは戦災にあったと聞いているため、果たして当時のままのものかどうか…。
回り込んで神泉駅前に出る。
そうそう!この駅、かつては神泉谷と呼ばれた細長い谷間をつなぐように、
作られたため、ホームの半分がトンネル内に、もう半分が外にといった、
おもしろいかたちをしています。
細い谷間はこの古地図の等高線を見ると少しはわかるかな?
で、当然谷間の駅は、出発すると踏切渡って、すぐにトンネルのなかへ。。。
次は渋谷駅だしっ!
そんな谷底にあった弘法湯。
いまでは、明治の初めに作られた入り口の弘法大師の石塔が残るだけ。
ここ、神泉谷から湧いた水に霊験があるとの謂れから、
江戸時代になると、富士山や大山詣、
滝坂道の先の淡島明神のお灸帰りの人らが多く立ち寄り、
繁盛したらしいですよ~。
明治になると、湯治場から歓楽場へと様相を変えて、
ますますフィーバー。
奥のマンションあたりに大きく構えた温泉料亭には、
近くの芸者置屋から、芸者さんらがお座敷に呼ばれたとか。。。
言ってみれば、オトナの街だった神泉谷。
料亭前のこの階段も芸者にあわせた蹴上げになっているらしい。
ふらふらと趣ありそな横道入れば、当時の料亭の黒塀なんかが、
残っているかもしれないが、なにせこのあたり、東京でも有数のラブホ街。
いまでもオトナの街は変わらないってわけ。
とてものんびりと写真など撮るわけにいかないのだよっ( ̄Д ̄)ノ
まっ、今回は滝坂道歩きのみにしましょうか。
道玄坂上交番の5差路に出る手前。
すでに空き家になった氷室店が、残っていた。
そして、道玄坂へ。
滝坂道はここで終わって、ここからはじまる。。。。