マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

長崎・日見街道を歩いてみる その5

2019-02-04 | 街歩き・歴史散歩

 

 

難所の日見峠を越えて、いよいよ長崎の街はあとひと息。。

自分の足を使うとよくわかりましたが、この日見隧道が出来たことで辛い山越えもなくなり、市街への陸路が圧倒的に短縮されたわけだから、当時は歓迎一色の大ニュースだったろうよ💧

 

 

国道の高架橋を渡って小さな橋を渡ります。

その先のお堂の脇道がこれから歩く古道になります。

今回、長崎西国八十八箇所霊場のお堂がたびたび現れるのも、街道歩きのアクセントになっていますねっ。


  

街道は山道からいよいよ街なかの風情に。。とはいえ、やはり人影はありません。

 

国道34号の崖下を、古い石積みの壁に沿って歩きます🐾


今ではただ寂しいだけの道ですが、昔ここを歩いたシーボルトは江戸への紀行文のなかで、このあたりの景色を、モミの並木が日見峠の麓まで続いていた、と印象を書き残しています。

きっと昔は美しい道だったのでしょう。。。

 

そんなモミの並木が続いた街道の風景はすっかり失われて、代わりに広いダム湖が出来ていました👀


ダム湖を抜けると、道は国道34号線に再び合流します。

 

 

山の斜面に張り付くように、軒を並べる長崎らしい風景が現れてきました。いよいよ長崎の街はもうすぐだっ❗️


 

国道歩きはつまらないので、すぐに松島稲荷の鳥居を抜けて裏道へと入ります。

  

なかなか風情のある、裏路地です。

   

長崎の街の名物❗️市電が見えてきました。いよいよ蛍茶屋に到着です。

蛍茶屋は、文字通り蛍の飛び交う名所のお茶屋があったことに因んだもので、その手前の一ノ瀬橋も、江戸時代初期の1653年に架けられた石橋だとか。。

 ちなみに長崎の街の主だった石橋群は、中国の橋梁技術を用いて、鎖国当時の高僧や中国語通訳人、出島へ出入りをしていた豪商ら個人の財力で建造されているんですって!

 

蛍茶屋の広い共同墓地下に居座る猫は、岩合さん好みのデカ顔でした。

 

街道は、国道から一段高いところに伸びているので、遊歩道のように長崎の街を眺めながら歩けるのがなかなかおもしろい。

  

中川八幡神社に着きました👀

まさにここが長崎街道玄関口にあたる場所なんですねー❗️おそらく旅の安全祈願でむかしはかなりの賑わいを見せていたのでしょうね。その証に長崎奉行の奉納した石灯篭が残っていました。

  

その先、またまた年季の入った石橋が現れましたねー👀

傍の説明板を読んでみると、1654年に中国語通訳人によって架けられたこちらの古橋は、明治期に人力車や人馬がスムーズに通れるように、橋の欄干を残したままに石を積み上げて段差をなくしたのだとか。。

で、改めて横からよく見ると旧欄干が石組みのなかに確かにハマっていますが、そこから察すると建造当時の橋はかなり薄っぺらだったのがわかりますね。。

 

 

振り返ると、写真左手の細い石畳が辿ってきた道になります。

因みにこの石畳は、旧街道当時から残されている敷石。

いよいよ長崎街道の玄関口 桜馬場までやってきました!

道端の説明板には、ここには二本の夫婦杉と治安維持のための木戸が立っていたことが書かれています。

 


 最後に、桜馬場に到着した伊能忠敬の測量日記を再度見てみます。

 

《桜馬場郷の限り。長崎市中、新大工入り口の木戸、八月十九日の測り始めのイの印に繋げて終る。街道一里一十七町ニ間(5,785.45m)》


と、佐賀との藩境石から始まった長崎街道の測量記録はまさにこの辺りで締めくくっています。

 

  

新大工町と桜馬場の道境に建つ、長崎街道はじまりの碑。


狭い日本とはいえ、西のハズレからのお江戸は地球の反対くらいに当時の人には思えたかもしれませんね!


そして、この碑にタッチ✋して、今回の街道歩きはおしまいにしたのでした。

 

コメント
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